平和展から戦時下の穂高を学ぶ
昭和20(1945)年8月、広島と長崎に原爆が投下されてから80年。
この節目の年に、平和について様々な取り組みが行われています。
その一つ、平和展が安曇野市穂高交流学習センター「みらい」の展示ギャラリーで開かれました。期間は6/10(火) ~ 6/13(金)。
「被爆80年 永遠の平和のために ~今、私たちにできること~」
新日本婦人の会穂高支部の主催です。
広島市の高校生が描いた「原爆の絵」などが展示され、被爆の怖ろしさ、戦争の愚かさなどが訴えられました。
■ 穂高交流学習センター「みらい」
中央図書館を核として、地域学習室、多目的交流ホール、展示ギャラリーなどが併設された複合施設です。
旧穂高小学校の跡地に三枚橋公園 (さんまいばしこうえん) と隣接して「みらい」が建設されました。
▼ (左) 整備された三枚橋公園 (右) かつてここに建っていた穂高小学校の校歌碑


▼ (左) 明治初期、全国的自由民権運動の先駆者であった松沢求策の銅像と碑 (右) 公園から「みらい」を眺める


▼ (左) 「みらい」入口の案内標識 (右) 「みらい」の外観


平和展
▼ (左) 平和展の会場となった展示ギャラリー (右) 原爆被爆の実相を示すパネル


▼ 広島市の高校生が描いた被爆の絵


▼ 被爆者からの聞き取りを基に、その記憶を再現した絵画


▼ (左) 核兵器保有国を示す資料 (右) 平和を願う訪問者向けコーナー


穂高にも戦争があった
▼ 穂高・有明空襲、陸軍有明演習場を示す資料
▼ (左) 町民がつづる戦争体験集「穂高町の十五年戦争」 (郷土出版社) (右) 「私の戦争体験 (改訂版)」(新日本婦人の会穂高支部編集)


▼ 穂高と有明への爆弾投下の場所を示す資料 (冊子「私の戦争体験」より)
■ 穂高空襲
昭和20年5月19日 午前11時40分頃、1機のB29が北アルプスを越えて北から侵入し、松本方面で旋回して安曇野市上空に現れた。
空襲警報も鳴らず、人々の多くは敵機だとは思ってもみなかった。
やがて、旧穂高小学校(現在の穂高交流学習センターみらい)の南150m付近に5発の爆弾が投下され、大きな穴があき、付近一帯の垣根や門柱、建物の屋根が吹き飛んだ。重傷者も出た。
空襲警報も鳴らず、人々の多くは敵機だとは思ってもみなかった。
やがて、旧穂高小学校(現在の穂高交流学習センターみらい)の南150m付近に5発の爆弾が投下され、大きな穴があき、付近一帯の垣根や門柱、建物の屋根が吹き飛んだ。重傷者も出た。
■ 有明空襲
昭和20年5月19日 B29は新屋神社北西100m付近に12発の爆弾を投下し、旋回して南下して去って行った。そこには、多くの人たちが苗代つくりや種まきの準備で働いていた。婦人会委員たちは、共同で提出用のサツマイモの耕作中であった。爆弾の破片が同区の女性2人に当たり即死し、数名が重軽傷をおった。
その場所に遭難の碑が建っている。
その場所に遭難の碑が建っている。
▼ (左) この田園地帯に爆弾が投下された (右) 1本の杉の木の下にある「遭難記念」と刻まれた犠牲者を悼む石碑


当時このあたりの小学校には松本歩兵第50連隊の部隊が駐留していました。校舎の一部や体操場などに宿泊し、敵が上陸してくるときの決戦に備えており、決部隊と呼ばれていました。
爆撃は兵舎となった小学校を目標にしたようですが、落下地点はいずれも数百m離れた水田でした。
■ 陸軍有明演習場
日露戦争後の明治40年(1907)に、松本市桐を中心に陸軍の兵営が設置された。
翌年1月、青森県で編成され樺太占領、朝鮮半島の警備の任務をおえた歩兵第50連隊が入営した。
松本連隊の設置後、陸軍は有明地区の45万坪(150ha)を買収し、演習地として使用することとなった。
兵舎の他、いくつか施設が建てられた。
兵隊たちは、松本から片道20kmを行軍し、実弾を使っての本格的な演習が実施された。
太平洋戦争末期になると、金沢で編成された第93師団(決部隊)の歩兵第204部隊が周辺の国民学校(現在の小学校)に寝泊まりして、本土決戦に備えて、演習を繰り返した。
翌年1月、青森県で編成され樺太占領、朝鮮半島の警備の任務をおえた歩兵第50連隊が入営した。
松本連隊の設置後、陸軍は有明地区の45万坪(150ha)を買収し、演習地として使用することとなった。
兵舎の他、いくつか施設が建てられた。
兵隊たちは、松本から片道20kmを行軍し、実弾を使っての本格的な演習が実施された。
太平洋戦争末期になると、金沢で編成された第93師団(決部隊)の歩兵第204部隊が周辺の国民学校(現在の小学校)に寝泊まりして、本土決戦に備えて、演習を繰り返した。
▼ 昭和10年頃の有明演習地の風景 (以下、当時の写真は信濃毎日新聞社著「写真記録昭和の信州」より)
▼ (左) 昭和20年当時の有明演習場 兵舎正門 (右) 演習に向かう兵士の行進の様子


▼ (左) 有明演習場での行軍の様子 (右) 実弾演習の様子


▼ (左) 上の白黒写真をカラーにしてみました (右) 現在の風景


▼ 現在も残る兵舎正門があった土塁の跡 (門の右側のもの)


終戦後、演習地は県有地となった。昭和27年(1952)に保安隊(後の陸上自衛隊)演習場の候補地にあがった。
しかし、地元の有明村は全村民をあげて強力な反対運動を展開した。
一度は県議会で演習地に決定されるが、住民の根強い反対運動により、防衛庁(現防衛省)は演習地化を撤回することになった。
広大な地域は、「豊里」と呼ばれる農業地域と県内外から観光客が訪れる観光地になっている。
しかし、地元の有明村は全村民をあげて強力な反対運動を展開した。
一度は県議会で演習地に決定されるが、住民の根強い反対運動により、防衛庁(現防衛省)は演習地化を撤回することになった。
広大な地域は、「豊里」と呼ばれる農業地域と県内外から観光客が訪れる観光地になっている。
▼ 豊里にある開拓記念碑
説明看板には次のように記載されています。
有明演習地跡
ここは、大正4年(1015) から昭和20年(1945) にかけて、旧日本陸軍松本歩兵第50連隊が演習地(約170ha) として使用していた場所です。戦後、政府・県の指導により、この一帯に食糧増産を目的に76戸が入植し、開墾が行われました。
なお、この開拓の功績を偲ぶ記念碑から北西約150mの場所には、兵舎正門があった土塁の跡が今も残っています。
ここは、大正4年(1015) から昭和20年(1945) にかけて、旧日本陸軍松本歩兵第50連隊が演習地(約170ha) として使用していた場所です。戦後、政府・県の指導により、この一帯に食糧増産を目的に76戸が入植し、開墾が行われました。
なお、この開拓の功績を偲ぶ記念碑から北西約150mの場所には、兵舎正門があった土塁の跡が今も残っています。
今回撮影した有明の場所です。