池田町の県道を歩いていると、東側の山間地帯に三角形の尖った岩が見える場所があります。池田町の陸郷 (りくごう) 地区の大穴山近くにそれはあります。
「ん !? 槍ヶ岳?」と一瞬目を疑ってしまいそうですが、槍ヶ岳は全く逆方向の北アルプスにあります。
では、あれは一体何?
尾根の反対側からはどのように見えるのでしょうか? 安曇野市明科・生坂村に回って見てみました。
▼ 生坂村の犀川にかかる日野橋辺りから眺めた景色。やはり、中央に三角形の突起物が見える
再び、池田町に戻り、今度は近くまで行ってみることにしました。
砂岩の山肌が風化でその姿を表し、鋭くとがった土柱が目を引きます。
これが奇勝「ままこ落としの土柱」と呼ばれる崖です。
ここには悲しい伝説が残されていました。
■ 「ままこ落としの伝説」とは
昔、田ノ入城という山城で、先妻の子が邪魔になった継母 (ままはは) が自分の子に跡を継がせるため、継子 (ままこ) を城の裏の崖から突き落とすいう悲話が残っています。
<物語は次のようです。>
昔、東山の高い所に田ノ入城という山城がありました。
そこには、太郎丸という母のいない若君がいました。
ある日、太郎丸に おりく という二番目の母君がきました。
おりくが太郎丸に歳を尋ねると
太郎丸は「5歳」だと答えました。
次の年、おりくは次郎丸という実の男の子を産みました。
おりくは次郎丸を見ていると、次郎丸がかわいくなり、太郎丸を邪魔に思うようになりました。
次郎丸をここの城主にしたいが、太郎丸がいたのではうまくいかないと考える毎日が続きました。
ある暑い日、おりくは城の裏の崖のそばで涼んでいました。
その時、急に崖の下から吹き上げてきた強い風にあおられて、もう少しで崖下に落ちそうになりました。
その瞬間、あることを思いつきました。
この崖へ太郎丸を落としてしまえば、この城は次郎丸のものになると。
夏が終わり、秋も終わりに近づいた頃
「太郎丸、あの空一面に飛んでいる赤トンボを採ってみないか」と誘います。
「明日の朝、日の出の頃にそっと裏の崖をのぞいてみるとよい。前の日に太陽で暖められた岩肌に数えきれない赤トンボの大群が羽を休めている。トンボの羽が朝露で濡れているうちは飛べないのだ」と。
次の朝、太郎丸は夜明けとともに裏の崖へ出かけました。
崖のはしに腹ばいになって下をのぞくと、切り立った絶壁に岩肌が見えないほど真っ赤なトンボの群れが止まっていました。
太郎丸は小さな手をいっぱい伸ばしてトンボの羽を捕まえました。
その瞬間、後ろからついてきたおりくは、鬼のような形相をして、太郎丸の背中を押して崖下に突き落としました。
「うぁー」という叫び声を残して、谷底へ落ちていった太郎丸は朝もやの中へ消えていきました。
それから間もなくして、太郎丸がいなくなったことに気づいて、城の内外では夜になっても太郎丸を呼ぶ声が山に響きました。
険しい谷間のため、太郎丸はなかなか見つからないまま、秋も深まり冬が近づいきました。
そして初雪が舞い始めた数日後、板に乗せられた太郎丸は氷のように冷たく、無残な姿となって城に運び込まれてきました。
変わり果てた太郎丸の真っ白な手には、色のあせたトンボがしっかりと握られていました。
以前は、三角の土柱の先端に松の木が数本生え、遠くからも眺める事ができたといいますが、今はすっかり崩れて、何もありません。
田ノ入城の城主は鎌倉時代初期の安陪五郎丸と思われます。
ここは礫岩 (れきがん) を主とする砂岩や凝灰岩のような堆積岩で、非常に崩れやすい地質だと思われます。
山頂部や城の城郭があったとされる部分もほとんど崩落してしまったようです。
崖の上を細心の注意を払いながら歩いてみましたが、時々、小石が崩れ落ちる音が響いてドキッとする思いをしました。
阿部五郎丸とはどんな人物だったのか、田ノ入城との関係も含め、少し歴史を振り返ってみましょう。
▼ 阿部五郎丸 とは
田ノ入城の城主で 阿部五郎丸 (別名:阿部貞高) という。
鎌倉時代初期の武将である。
父は 阿部貞胤 (あべさだたね)、兄は 阿部貞綱 (あべさだつな)
父の阿部貞胤は 承久の乱 (※1) のとき、後鳥羽上皇方につき、森城主 (※1) である仁科盛遠 (※2) の武将の一人として、北陸の防衛にあたった。
※1 承久の乱 (じょうきゅうのらん) <1221年>
源頼朝 (みなもとのよりとも) が1192年に本格的武家政権である鎌倉幕府を開いた後、幕府勢力が拡大することを恐れた京都の後鳥羽上皇 (ごとばじょうこう) は軍事力強化を図るなど、朝廷権力の復活を目指していた。
頼朝の急死の後、頼朝の子である頼家 (よりいえ、2代将軍、18歳で即位)、実朝 (さねとも、3代将軍、12歳で即位) が跡を継ぐが、短い間で源氏の正統は断絶してしまう。代わりに幕府の権力を握ったのは、頼朝の妻である政子の父である北条時政 (ほうじょうときまさ) であった。以後、執権の地位は北条氏が受け継いだ。
源氏の正統が絶えると、時機到来とみた上皇は執権北条義時 (ほうじょうよしとき、時政の子) を追討する命令を全国に下した。
これが承久の乱の始まりである。
しかし、幕府と御家人 (ごけにん) の結束は固く、義時は幕府軍を京都に派遣する。上皇に味方する武士は少なく、上皇方は1ヶ月で平定された。
この乱の結果、後鳥羽上皇をはじめとする3人の上皇は各地に流刑に処せられた。
この時の天皇は4歳で即位した仲恭天皇 (ちゅうきょうてんのう) であったが、承久の乱後に廃された。
また、上皇についた貴族や武士の所領約3000ヶ所は没収され、功績のあった御家人たちに配られた。
※2 森城 (もりじょう)
大町市にあった日本の城。別名仁科城。城主は仁科氏。
※3 仁科盛遠 (にしな もりとお)
鎌倉時代初期の武将。信濃仁科氏の祖。後鳥羽上皇に仕え、承久の乱で北条朝時 (ほうじょう ともとき) と戦い敗れる。
幕府は、盛遠が上皇方についたことを怒り、盛遠の所領を取り上げ、森城は荇野谷政治 (かんのやまさはる) に与えてしまう。
承久の乱において、幕府は東海道、東山道、北陸道の3道から一斉に京都を目指して進撃した。
そのうちの北陸に向かったのは北条朝時で兵4万余。
この時、北陸の防衛に当たった上皇方の総大将が仁科盛遠であり、諸将と兵合わせて2千余騎。その中に、阿部五郎丸の父である阿部貞胤が武将の一人として加わっていた。
一大決戦が行われたが、仁科盛遠側は全員戦死という悲壮な結末を告げた。
承久の乱後の1222年、阿部五郎丸(貞高) は兄の貞綱と共に荇野谷政治のいる森城を攻める。
激しい戦いの末、兄貞綱は討たれて戦死するが、貞高は荇野谷政治を討ち取り、改めて阿部貞高は仁科氏を名乗り森城主となって、その後11年間をここで送る。これが阿部姓の仁科氏である。
▼ 田ノ入城 とは
阿部五郎丸(貞高) の初めの居城であったと思われる。
田ノ入城は承久の乱以前の城で、平安時代末期か鎌倉時代初期の城と考えられている。