光城山の魅力
安曇野の東側にある低山です。
安曇野の西に位置する北アルプス (西山) と真正面で向き合うように、東に位置する標高900m程の里山です。
毎日のように登る地元の方も多く、"生活に溶け込んだ市民の山" とも言われています。
トレッキングコースはいくつかありますが、人気なのは「さくらコース」で、登山口から光城山まで約1時間のコースです。

標高は約911.7m、標高差 (麓からの高低差) は約360mと比較的少なく、登山・ハイキング初心者やファミリーでも気軽に楽しめる山です。
春の桜、秋の紅葉・雲海、冬の雪景色など、季節ごとに表情が変わる里山として人気です。



大正から昭和の近年にかけて、土砂崩れ防止や景観保全の目的で植樹が行われ、登山道沿いにソメイヨシノが約1,500〜2,000本植えられました。
春、安曇野平から見ると、山の斜面にピンクの帯がスーッと伸びているのが分かります。麓から山頂に向かって“桜の道”が続く様子が「昇り龍」のようだとも言われています。
桜は麓から咲き、中腹、そして山頂へと開花が上へ上へと移動していくので、「桜を追いかけて登る」体験ができる、かなり珍しい花見登山となります。
登山道の桜植栽は大正時代あたりから行われており、当初は大正天皇即位記念の植樹だったという記録もあります。
山頂に立つと、安曇野の田園風景、犀川・高瀬川・穂高川の流域、正面に常念岳など、北アルプスが一望できる大パノラマが広がります。






鎌倉時代、当地を治めていた海野 (うんの) 氏※の支族「光 (ひかる) 氏」が山城を構えていたため、「光城 (ひかるじょう)」の名が残されました。
すなわち、光城山とは光氏の城があった山になるのです。
(注:光氏は個人名ではなく、海野氏の中の一族名です)
平安末期から戦国時代にかけて、信濃東部 (現在の東御市~上田市) を本拠にしていた滋野氏の流れをくむ名門武士団です。
海野氏は勢力拡大とともに、一族を各地に配置していきました。
戦国時代に武田氏に敗れて一時没落しますが、その末流から真田氏が出たことで知られています。
家紋として「六連銭」を使用しており、後に真田幸村が使用したことで有名です。


光城は、かつてこの山頂 (現在の光城山) に築かれた「山城 (やまじろ)」※でした。
山や丘陵などの高所に築かれた城のことで、戦国時代以前の日本で広く作られ、自然の地形を最大限に利用して防衛力を高めた “天然の要塞” と言えます。
光城を築城したのは 海野氏の一族で、特に海野六郎幸元 (後に「光」の文字を取って「光六郎幸元」と名乗った) によるものと考えられています。

この一族は、塔ノ原、田沢、刈谷原など周辺の丘陵地にも城 (館や城砦) を構え、烽火 (のろし) などによる連絡網を築いていたと言われています。光城もそのひとつで、地域の防御・監視、連絡拠点の役割を果たしていた可能性があります。
大きな天守閣や石垣を持つ城ではなく、いわゆる「山城」でした。
主郭 (本丸) と二の郭を中心に、土塁、空堀 (堀切) 、竪堀、曲輪 (くるわ) などの土の構造で防御されていました。



パッと見は雑木林でも、「ここを防御線にしていたんだな…」と想像しながら歩くと、結構面白さが伝わってきます。
山頂の主郭には現在、火の守り神を祀る「古峯神社」が建っています。



城の築かれたのは、室町時代中期〜戦国時代初期 (16世紀ころ) にかけてとするのが通説です。
当時、信濃 (現在の長野県一帯) は戦国の混乱が激しく、勢力争いの舞台になっていました。城としての光城は、地域防衛・連絡拠点のひとつとして機能していたようです。つまり、有事(戦)のときに立てこもり、狼煙 (のろし) を上げ、敵の侵入を防ぐという戦うための城だったのです。普段は人が常駐していないことも多かったと思われます。
しかし、天文22年 (1553年)、 武田信玄の勢力が進攻する際、周辺の城砦 (例えば刈谷原城など) が攻められ、光城も落城しました。
その後、この地域を治めた松本城主の小笠原貞慶 (おがさわらさだよし) によって修復された、と考えられています。


光城山の山頂から、「さくらコース」を下らずに「田沢城跡コース」を進むと、田沢城跡を確認することができますが、標識らしいものは見当たらず、TVアンテナ中継所を見つけて、この辺りだろうなと想像しました。
田沢城は仁科氏 (にしなし) の支配下にあったと考えられています。仁科氏は、信濃でもかなり古い豪族で、安曇野一帯を長く治めていた名門です。
戦国期になると、この地域は武田信玄の信濃侵攻ルート上の最重要ラインとなりました。田沢城は、松本平へ抜ける交通・軍事の監視拠点であったと思われます。
田沢城は光城山のような"山城"ではなく、里に近い低丘陵に築かれた実務型の城です。
即ち、戦うためだけでなく、日常の統治や管理のために使われた城です。山の上は防御には最適ですが、水の確保が大変で、生活が不便であり、日常の業務には向きません。従って、普段は里の"実務型の城"で統治し、戦になったら"山城"へ退避する形が取られたのです。
歩いてみましたが、砂れきの急斜面に落ち葉が覆いかぶさり、何度も滑りそうになりました。このコースは注意が必要です。
こうして、かつての山城の史跡が、地域の自然と歴史、そして季節の風景を楽しむ里山として次代に受け継がれています。
築城〜落城〜廃城〜現代の「城址 → 花見スポット」という長い時間の流れを通じて、この土地の歴史の移り変わりを一望できます。
戦国の世と現代の平和、両方に思いを馳せることができる場所なのです。
※光城山と共に「安曇野ひがし山」と呼ばれる長峰山については、また別の機会に紹介します。