野麦峠は、長野県と岐阜県の県境、乗鞍岳と鎌ケ峰の間の標高1,672mにある峠です。
野麦峠が拓かれたのは奈良時代といわれ、その後、「鎌倉街道」「江戸街道」と呼び方が変わり、明治時代に「野麦街道」となり、今日に至っています。
野麦峠は11月中旬から翌年4月下旬まで冬季通行止めになります。



野麦峠は 映画『あゝ野麦峠』で有名になりました。映画の主人公・政井みねを追って、製糸工場のあった信州・岡谷からみねの生誕地である飛騨・角川まで、工女たちが歩いた道を辿ってみました。

明治時代、日本では製糸工場が飛躍的に増えました。(※)
(※) 日本で製糸工場が急増した理由
19世紀半ば、ヨーロッパでは蚕の病気が流行し、生糸の生産量が大きく減少した。そのため、品質の良い日本の生糸が注目され、特にフランスやイタリアなどへ大量に輸出されるようになった。
明治政府は「富国強兵」を目標に掲げ、外貨を獲得するため輸出産業の育成を進めたが、その代表が製糸業であった。
▼ (左) 生糸輸出量の推移 (右) 工場数と職工数


岡谷はかつて日本の近代製糸業を代表する糸の都でした。
明治初期から昭和初期にかけて、製糸業が大きく発展しました。
特に、生糸は当時の日本にとって重要な輸出品で、岡谷の生糸は海外にも知られ、「シルク岡谷」「糸都 (しと) 岡谷」と呼ばれていました。


特に岡谷は、諏訪湖という恵まれた立地条件が製糸業の発展を支えました。
明治41年頃、岡谷には片倉製糸のような大きい工場から家内工業的な工場まで数えると247もの工場がありました。
当時、製糸工場のことを「キカヤ」(※) とも呼んでいました。
明治時代、それまでの手作業による「座繰製糸 (ざぐりせいし)」に代わり、動力を利用した「器械製糸」が急速に普及した。人々は器械製糸を行う工場を「器械場 (きかいば)」あるいは「器械屋 (きかいや)」と呼び、それが訛って「キカヤ」と呼ばれるようになった。
▼ 岡谷蚕糸博物館


岡谷が日本の近代製糸業を支えた歴史を、「岡谷蚕糸博物館」で学ぶことができます。
ここでは、実際に稼働する製糸工場を見学することができます。
富岡製糸場で使われたフランス式操糸機、岡谷で発展した諏訪式操糸機、工女 (※) の仕事や生活、養蚕から生糸づくりまでの流れをここで学ぶことができます。
主に明治から昭和初期にかけて、製糸工場や紡績工場などで働いた女性労働者のことを指す。当時の日本の生糸は重要な輸出品であり、工女たちは日本の近代化を支える重要な働き手であった。
当時は工女と女工 (じょこう) の両方が使われていた。一般には「女工」の方が広く使われ、紡績・織物・製糸など工場で働く女性全般を指した。一方、「工女」は製糸業関係の資料や公的文書で使われることが多く、より丁寧な表現とされていた。
▼ 岡谷蚕糸博物館に掲示された工女についての説明パネル




飛騨・越中から岡谷などの製糸工場へ出稼ぎに来た工女たちは、雪の野麦峠を越えるようになりました。
諏訪湖が全面凍結する冬は、操業ができなくなるため、工場は3月1日に始まり、12月20~25日に終わりました。このように、工女たちが信州に向かうのは2月の下旬、故郷に帰るのは12月の下旬という寒さ厳しい雪の深い中だったのです。
工女たちの家は、日用品やいろいろな物を「ツケ」で買い、彼女たちが稼いできたお金でまとめて払う「盆暮れ勘定」(※) でした。「猪が飛び交う」(※) という逸話も残っています。当時の紙幣には猪がデザインされていたからです。
製糸工場で働く工女の中でも特に成績が優秀で、年間に100円もの賃金を稼いだ女性を「百円工女」と呼びました。当時、百円で家が1軒建つといわれるほどでした。
お盆と年末にまとめて代金を精算すること。江戸時代から明治・大正時代にかけて広く行われていた。
(※) 猪が飛び交う
明治時代、「猪札 (いのししさつ)」と呼ばれる表面に猪が描かれた紙幣があり、その紙幣が盛んに行き交うことを指した。
▼ 猪札と呼ばれた10円札

昭和43年(1968年)、山本茂実の『あゝ野麦峠 ― ある製糸工女哀史』が朝日新聞社から出版されました。
祖母から聞いた岐阜県飛騨地域の糸引き工女達の話を思い出した山本が、飛騨の少女たちが野麦峠を越えて岡谷・諏訪の製糸工場へ働きに行った歴史を、十数年にわたる聞き取り調査によってまとめたノンフィクションです。
製糸工場の最も過酷な明治40年前後の状況が描かれていました。約400名にも及ぶ元工女を訪ねて克明に取材し書かれていました。
政井みねを含め、さまざまなエピソードが紹介されています。
出版後、大きな反響を呼び、『あゝ野麦峠』は昭和54年(1979年)には山本薩夫 (さつお) 監督によって映画化もされ、女工の過酷な人生が描かれた、日本映画史に残る社会派作品となりました。大竹しのぶ主演 (政井みね役)。兄辰次郎役を地井武男が演じました。

明治時代後半、製糸業が発達した長野県では、慢性的な工員不足を招き、岐阜県や山梨県などの周辺各県へ広く工員を募集するようになりました。
製糸工場は、全国に2163棟、職工は107841人でした。当時、長野県の工場と職工数は、全国の3分の1を占め、首位でした。
性別では工女が9割を占め、年齢別では16歳から21歳までが多かったのです。
山一林組は、岡谷に数多くあった製糸工場でも5本の指に入る大製糸工場 (※) でした。
事務所と守衛所が残されています。
山一林組は明治12年(1879年)に創業し、昭和初期には長野県内だけでなく、埼玉・千葉・静岡・愛知にも工場を持ち、合計3,966釜という規模で、全国でも第6位の釜数を誇る大企業であった。
尚、最大規模であったのは片倉組で、「日本最大の製糸工場」とも紹介されている。


政井みねは、明治21年2月3日、現在の飛騨市可合町角川に生まれました。
山深い飛騨では、林業、焼畑 (やきばた)、炭焼きが主で、女の体力で稼げる仕事はなく、製糸工場以外に自分の生活を支え家族の負担を軽くする道はなかったのです。
工女にとって、野麦峠超えが生きることだったのです。
政井みねは、口べらし (※) のため14歳の頃から信州の製糸工場(山一林組)へ糸引き工女として、毎年、出稼ぎをして働きました。
数年で百円工女と呼ばれる優秀な工女になりました。
家計の負担を軽くするために、養う家族の人数を減らすことで、ここでは、家で食べさせる人数を減らし、さらに賃金を家へ送ってもらうために、娘を製糸工場へ働きに出すことを指す。

しかし、20歳のとき、出稼ぎ中に病気のため倒れ、「ミネビョウキ、スグヒキトレ」との工場からの電報が届き、兄辰次郎は2日間夜通しで歩いて工場に駆け付けました。
やつれ変わり果てたみねは、もう立ち上がる力もなく、ただただ涙するばかりでした。
工場では一刻も早く連れ帰るようにと催促され、兄は、用意してきた「セイタ (背板)」(※) に板を打ち、布団を敷き、みねを後ろ向きにして背負い、無情な工場を後にしました。
見送る者がいない中、番人さんだけが「早よう治して、また来いや」と声を掛け、みねの姿が見えなくなるまで見送ってくれました。
辰次郎は、みねを松本の病院へ入院させるつもりで、ひとまず松本駅前の飛騨屋旅館に一泊しました。しかし、みね自身が「どうしても故郷の飛騨へ帰りたい」と強く望んだため、辰次郎は入院を諦め、衰弱したみねを背負って再び野麦街道を進み、故郷を目指したのです。
映画『あゝ野麦峠』は政井みねのエピソードを中心に作られていますが、約400ページにわたるルポルタージュ『あゝ野麦峠』の中で、みねに関する記述はわずか数ページほどでした。
ルポルタージュでは政井みねは腹膜炎で亡くなったと記されていますが、映画では結核となっているなど改変も見られます。

出典:みのかも文化の森
野麦峠では毎年のように遭難や凍死者が出ることを憂い、雪や吹雪で遭難する人を救うために作られた石造りの避難小屋です。お助け小屋と同じく、雪深い峠道を歩いた人々の命を守るための場所だったのです。


▼ 旧野麦街道入口 (長野県側)


松本市奈川側にあります。
ここから野麦峠までの約1300mを旧野麦街道として、県の史跡区域に指定されました。
▼ 野麦峠 (右) 石碑には「あゝ野麦峠」と刻まれている



野麦街道は飛騨高山と信州松本を結ぶ道であり、古くから物流の道として利用されてきました。
標高1672mの野麦峠では、冬季には多くの凍死者を出し、避難小屋が作られるほどの難所でした。
明治時代の野麦峠は、飛騨から諏訪・岡谷への製糸工場へ工女が出稼ぎに通った道で、当時の工女たちは、故郷から工場まで3泊4日かけて歩いたといわれます。


江戸時代、厳しい峠越えにより命を落とす人も多く、峠に小屋を建て、番人を置き、峠越えする人達を救って欲しいとの願いを幕府が聞き入れ、天保12年に野麦峠の頂上に「お助け小屋」が建てられました。
その後、終戦の直後に倒壊して無くなってしまいました。
野麦集落(※)に、かつて宿屋をしていた家屋があり、空き家になっていたこともあって、移築して、休憩、宿泊施設として「お助け小屋」を再現することになったのです。昭和45年10月2日に完成式が執り行われました。
現在の岐阜県高山市高根町野麦の地区集落のこと。かつては野麦街道を行き交う人々の重要な中継地であった。
野麦峠の東側(信州側)には旧奈川村の川浦集落があり、西側には野麦集落があった。野麦峠は、この両集落を結ぶ峠であった。


野麦とは、この峠一帯に群生しているクマザサ(熊笹)の実 (※) のことを指します。
ササの実は、形や大きさが麦に似ています。
「野に生える麦のようなもの」という意味で「野麦」と呼ばれるようになり、それがそのまま峠の名前になったと言われています。
当時、就労先で妊娠し、厳しい峠越えの最中に胎児を流産する工女も少なくありませんでした。故に「野産み峠」となり、野麦峠となったという説もあります。
実際には、野麦峠の飛騨側にある「野麦」という地名が古くから存在しており、その地名から野麦峠の名がついたと考えられています。


▼ 映画『あゝ野麦峠』の一場面







政井みねと兄・辰次郎は、工場を出て5日目に野麦峠に辿り着きました。
みねは余程故郷が恋しく、一目飛騨の姿を見たかったのでしょう、お助け小屋で買い与えたソバがゆや甘酒にも手を付けようとせず、「あゝ飛騨が見える、飛騨が見える」と嬉しそうにそれだけ言い残し、兄・辰次郎の見守る中、静かに息を引き取りました。
明治42年11月20日の午後2時頃のことでした。
その後、兄は妹の遺体を背負い、さらに4日かけて故郷の角川に辿り着きました。地域の人たちは、手を合わせて出迎えてくれたそうです。
▼ (左) 兄に背負われた「あゝ野麦峠の像」 (右)「政井みねの碑」


昭和54年に映画『あゝ野麦峠』(大竹しのぶ主演)が公開されました。
実は、それ以前の昭和44にも吉永小百合は、政井みねの生涯を自身の手で映画化したいと強く熱望され、実際に自らの足で過酷な野麦峠の道を歩き、映画化に向けて熱心に動いたものの、当時の所属映画会社の事情などにより残念ながらその企画は流れてしまいました。(※)
野麦峠には、兄・辰次郎に背負われた「あゝ野麦峠の像」と「政井みねの碑」が建っています。
吉永小百合は映画化の中止に強くショックを受けましたが、彼女のみねに対する思いは強く、吉永小百合から提供された資金を原資とし、みねの実兄の承諾を得て、地元の村々や関係者の協力によって昭和45年5月に建立されました。
1969年 (昭和44年) には、主演:吉永小百合、監督:内田叶夢、制作:宇野重吉という顔ぶれで自主製作を行うと発表されていたが、飛騨と信州での大規模ロケ、明治時代の集落や製糸工場の再現、数百人規模の工女の群集シーン、長期ロケなど必要で、「あまりにもスケールが大きく、膨大な製作資金を要するため実現に至らなかった」と記されている。
10年後の1979年に、監督:山本薩夫、主演:大竹しのぶで映画化が実現したのは、新たな出資者が現れ、配給を東宝株式会社が担当する体制が整ったためである。
▼ 映画『あゝ野麦峠』の峠での撮影場面 黒い点に見えるのがエキストラの人達


昭和53年11月にクランクイン。
11月と翌年2月の厳寒の中をそれぞれ1週間ずつ野麦峠で撮影されました。
多くのエキストラが必要なため、高根の小中学生は総動員され、若い女性たちも駆り出されました。
昭和54年6月に完成し、全国一斉に公開されました。
▼ (左) 閉館した「野麦峠の館」
(右) 開館していた「野麦峠の館」内部の様子 (提供:ニッポン旅マガジン)


1991年6月にオープンしました。
開館しているのは、4月下旬~11月初旬の野麦峠が冬季閉鎖されるまでの7ヶ月ほどでした。
『あゝ野麦峠』の世界や飛騨の工女たちの歴史を紹介する施設でした。工女の写真、感謝状、手紙などが展示され、映画では伝えきれない工女たちの日常や人生を紹介していました。
しかし建物の老朽化などにより、2022年3月末で閉館し、約30年の歴史に幕を下ろしました。
同館の資料の一部は、隣接する施設「お助け小屋」に展示されました。
「峠」をテーマにした日本で唯一の資料館であった「野麦峠の館」は今後、解体に向けて動いています。あの建物がなくなってしまうのは寂しい限りですが、展示館は失われても、野麦峠の旧道、お助け小屋、工女たちが歩いた峠道そのものは今も残り、歴史の舞台そのものが「生きた資料館」として残るでしょう。
野麦峠から高山市高根町に下りて、工女たちが通った道に沿って飛騨を目指してみました。


高山から野麦峠に向かう街道で、「最初の山越え」とされる場所が美女峠 (※) でした。
飛騨の工女たちは、故郷を離れた直後に美女峠を越え、その後さらに難所の野麦峠へと向かいました。工女たちにとって故郷との別れを象徴する最初の峠だったといえるのです。
乗鞍岳の眺望がすばらしいことで有名です。
八百比丘尼 (はっぴゃくびくに) 伝説より。昔、この峠の近くに「八百歳を超えても若々しい美しい尼 (比丘尼) が住んでいた。その尼は目も覚めるような美女であったため「美女のいる峠」から「美女峠」と呼ばれるようになった。


飛騨古川は岐阜県の高山の北隣にある静かな城下町です。落ち着いた町並みが魅力的です。ここ八ツ三館と本光寺があります。


飛騨古川にある、江戸時代末期に創業した老舗の料亭旅館です。
長野県では、工女の契約期間を1年間とするところが多く、そのため各工場では、毎年募集を行って工女を雇い入れる必要がありました。
八ツ三館を拠点に、信州からの多くの製糸工場の検番 (※) が、飛騨で優秀な工女を雇い入れるために各地を走り回りました。
また、八ツ三館は、信州に向かう時の工女の集合場所でした。
検番の最も重要な仕事は工女集めだった。飛騨や信州の山村を回り、勧誘を行った。
即ち、検番が飛騨へ募集に来て、契約を結び、集団で野麦峠を越えたのである。
工場到着後は一つの作業場を受け持ち、出勤管理や作業指導などを行った。そして、毎日の生糸生産量を把握し、どの工女が多く糸を繰(く)ったか、どの作業場の成績が良いかを競わせた。
八ツ三館は、募集に来た検番や工場関係者の宿泊場所・面接場所としても利用された。
八ツ三館の川向かいに本光寺があります。
飛騨古川を代表する寺院の一つで、飛騨地域最大級の木造本堂が有名です。
出稼ぎから帰省した工女たちは、2月中頃まで故郷で過ごしました。その間の楽しみの一つが、毎年1月15日に開催される飛騨古川の冬を代表する伝統行事「三寺まいり」でした。未婚の女性が和ろうそくを手に、円光寺・真宗寺・本光寺を巡るのです。工女たちも、この日は着飾って巡拝しました。
境内には「あゝ野麦峠」を記念した文学碑があり、飛騨の若い女性たちが信州の製糸業へ出稼ぎに行った歴史を偲ぶ場所として紹介されています。


境内を囲む石造りの玉垣 (たまがき) には、寄進した人や団体の名前が刻まれています。
製糸工場や工女たちが神社へ寄進し、その見返りとして、石垣の石柱に「○○製糸場」「○○組工女一同」などの名前が刻まれました。
工女たちは、病気平癒、峠越えの安全祈願、故郷へ帰れるよう願掛けなどのために寄進したのです。

飛騨古川からさらに約10kmほど行ったところに河合町角川があります。
飛騨北部にあり、周囲を山に囲まれた豪雪地帯で、耕地が少なく、昔から暮らしは決して楽ではありませんでした。農業を中心とした山村でしたが、冬は雪に閉ざされる期間が長く、出稼ぎに頼る家庭が多かったといわれています。明治時代には、信州の岡谷や諏訪の製糸工場へ向かう工女を送り出した地域の一つとして知られています。みねや兄・辰次郎の育った場所です。
▼ 政井みね生誕の地碑 (生家跡を示す記念碑)


父・友三郎は六男五女の子ども (ただし、公的な資料において明確な数字は公開されていない) を抱えていましたが、大変貧しい生活を送っていました。
家族全員に十分な食べ物が行き届かない中にあって、いわゆる口減らしのため、家族を守るために、みねは信州へ糸引きに行くことになるのです。
河合町角川にある専勝寺の境内に、政井みねの墓所があります。
政井辰次郎は、みねが亡くなった後、人が変わったかのように働きに働いて、そして、みねを弔うため、専勝寺裏手に親鸞聖人像を自費を投じて建立しました。
▼ 専勝寺境内にある政井みねの墓




専勝寺の政井みね像は、2024年5月に除幕された新しい銅像で、東京の実業家・漆原徳光氏が寄進されたものです。
野麦峠にある像が「兄・辰次郎に背負われるみね」を表すのに対し、専勝寺の像は、故郷・角川で政井みねを静かに偲ぶための像と考えられます。
・弘法大師像(こうぼうだいし)
越中うら街道沿いに、工女たちの道中の安全を祈願するために弘法大師像をやはり自費で建立しました。
(右) 兄・辰次郎が自費で建立した弘法大師像


角川にある河合振興事務所は、飛騨市役所の支所にあたります。
政井みねや河合町出身の工女に関する資料、地域史資料の収集・保存に協力してきました。
3階に「あゝ野麦峠資料展示会場」が設けられています。主に、武井みねに関する資料や、映画『あゝ野麦峠』のロケ資料などが残っています。





武井みねに関する貴重な写真も目にすることができます。
(右) 完成した親鸞聖人像の前で親族記念写真 (右から3人目が兄辰二郎)



岡谷の製糸工場から角川の生誕の地まで、工女たちが歩いた道を辿ってみました。
いくつもの峠を越え、遠い道を、まだ十代の少女たちが歩いたことに驚きと感銘を覚えました。多くの少女たちが、家計を助けるために険しい野麦峠を越えて、何日もかけて歩いたのです。「みねはこの山々を見ながら、どんなにか故郷を思ったことだろう」
そして、『あゝ野麦峠』は単なる工女の悲話だけでなく、深い家族の物語であったことを思い知らされました。
岡谷から角川までの今回の旅は、近代日本を支えた名もない少女たちに会いにいく旅でもありました。
▼ 「松本市歴史の里」案内図

「松本市歴史の里」は市民の保存運動から始まった博物館です。
江戸時代後期から昭和にかけて建てられた歴史的建造物5棟が移築されています。




「宝来屋」は江戸時代後期、松本と飛騨高山を結ぶ野麦街道沿いの集落、旧奈川村川浦に、旅人宿 (りょじんやど) として建てられました。
明治から大正にかけては、飛騨地方から諏訪・岡谷の製糸工場へ向かう工女たちが大勢宿泊したことから「工女宿宝来屋」とも呼ばれていました。
奈川地区には、こうした旅人宿が何軒もあり、宝来屋があった川浦には、工女宿扇屋など6件の旅人宿がありました。
こうした旅人宿は、鉄道網の発達などで工女の移動に野麦峠が使われなくなるとともに衰退し、廃業していきました。
▼ 山一争議を伝える案内板と記事


山一林組製紙は、昭和2年に全国で初めて、工女の労働争議が起きたことでも知られています。
山一林組での製糸工女1300名によるストライキ「山一争議」と呼ばれ、戦前の製糸工場争議では国内最大級であり、19日間に及びました。食堂・炊事場・寄宿舎がロックアウトされ、製糸工女1300名が工場外に追い出されてしまった他、60数名の逮捕者も出ました。
この争議ののちには、工女たちに待遇改善がされ、また、職場での運動会なども開催されるようになりました。
最後に、簡単に動画にまとめましたので、こちらもご覧ください。