【紹介】支那家 味しろ

支那家 「味しろ」


「支那家 味しろ」さんに立ち寄りました。
安曇野の山麓線(県道25号)沿いにお店はあります。
この通りには多くの美術館や観光施設、飲食店やカフェが立ち並んでいる人気のスポットです。


味しろさんは、安曇野では人気の老舗のラーメン屋さんです。
蕎麦屋がしのぎを削る場所の中、貴重なラーメン屋さんとなります。
営業はスープがなくなり次第終了とのこと。
店内には、カウンター席とテーブル席が用意されていました。


今回は支那そばと餃子を注文しました。
醤油味のスープにはコクがあり美味しくいただきました。
煮干と鶏の風味が効いたスープでした。


餃子も皮のもっちり感があり、焼き加減も最適でした。
餃子は3人前(3人で行ったからです)。写真を撮る前に数個食べてしまったので、中途半端な数が写っている写真になってしまいました・・・

水曜日が割安でお得ですね。

 

ところで「支那そば」という言葉が気になったのでみてみましょう。

ラーメンについて


「支那そば」「中華そば」「ラーメン」の違いは何でしょうか?

どれも呼び方が違うだけで同じものです。


明治初期の頃は「南京そば」と呼ばれていました。
「南京」も「支那」も「中華」もすべて中国を意味します。
すなわち中国の麺という意味です。


明治中期ごろは「支那そば」と呼ばれるようになりました。
戦後は「支那」という呼称は避けるようになり「中華」へと変わっていきました。
「中華そば」ですね。


地域によって今でも「支那そば」と呼ばれたり「中華そば」と呼ばれたりしますが、
その地域でラーメンが普及した時代に影響されていることが多いようです。


東京にラーメンが定着するきっかけとなったのは、1910年(明治43年)に浅草で開業した広東料理店「来々軒」によるものです。来々軒は大繁盛をし、これをきっかけに中華料理店が増えたのです。


当時、東京では「支那そば」という日本語で呼ばれてましたが、来々軒で働いていた広東人コックたちは支那そばのことを「ラーメン」と呼んでいました。
来々軒のヒット以降、「支那そば」という日本語名とともに「ラーメン」という広東語も広がっていったのです。


ラーメンの漢字表記は「柳麺」(ラウミーン)でした。
柳の枝のように細い麺を使った麺料理という意味だったのです。
戦後になると、柳麺に代わって次第に「拉麺」(ライミン)、「老麺」(ロウミン)という表記が増えるようになりました。


カタカナで「ラーメン」と呼ばれるようになったのは1958年(昭和33年)に発売された世界初の即席麺「チキンラーメン」(日清食品)の誕生後なのです。

※長野県伊那市を中心とする郷土料理の「ローメン」は、ラーメンとは全く別のものです。

 

再び、お店「味しろ」


再び店内の話に戻ります。

入口近くの店内の壁に飾ってある写真に目が留まりました。
長野県出身のキノコ大好き芸人 "坂井きのこ" 氏です。
SNSやテレビ、ラジオ、講演会などで活躍中です。
この方はなんと、オーナーの息子さんとのこと。
きのこについて貴重なお話をお聞きしたいな~と思いました。