安曇族③

北九州から信濃へ

 

■ 安曇の語源

 

「阿曇」と「安曇」の表記

元々は「阿曇」でしたが、8世紀初期から「安曇」と書かれるようになりました。

 

安曇

志賀島 (しかのしま) に上陸してきた海人 (あま) 族を 安曇族 と呼びました。
次のような説があります。

①安曇族が奉斎する海神は「綿津見神」です。
 その「WATATSUMI」が転化して「ADUMI」となった。

②「曇」を「DOM」と読み、そこから「ADUMI」となった。

③安曇族は体に入墨(文身)をしていたということから、「阿墨」が転化した。

 

阿曇磯良 (あづみのいそら)

海の神とされ、阿曇氏(安曇氏)の祖神とされます。

阿曇磯良は豊玉毘売命 (とよたまびめのみこと) の子とされ、鵜葺草葺不合命 (うがやふきあえずのみこ) と同神であるとする説もあります。

海底に住む阿曇磯良は、神楽に誘われて海中より現れ、古代の女帝神功皇后に竜宮の珠を与えたという伝説が残っています。

 

信濃の安曇氏の名前が登場するのはいつ?

安曇氏が文献上初めて登場するのは、奈良時代の746年頃。
正倉院に献納された麻布に、文字が記載されていました。

 

 

■ 阿曇族の盛衰
 
繁栄

安曇族が大和王権の中で、大勢力として成長しつつある過程を資料の中で見ることができます。

▼『肥前国風土記 (ひぜんのくにふどき) 』より
阿曇百足 (あづみのももたり) が第12代景行(けいこう) 天皇の御付人として活躍したとあります。

 

▼『日本書紀』より

15代応神(おうじん)天皇のとき
「各地の漁民が騒(さばめ)いて、命に従わなかった。阿曇連の先祖大浜宿禰 (すくね) を遣わして、その騒ぎを平らげられた。それで漁民の統率者とされた。時の人の諺に”佐麼阿摩(さばあま)”というのはこれがもとである」と記され、阿曇族の先祖大浜宿禰という人物が、海人を統率する宰(みこともち) に任じられた。

 

阿曇連浜子の処罰

401年、17代履中(りちゅう)天皇のとき
阿曇連浜子 (あづみのむらじはまこ) が、住吉仲皇子の反乱に加担して罰せられるという事件がありました。

<『日本書紀』での記述>
「(履中元年)夏4月17日、阿曇連浜子を召していわれた。『お前は仲皇子 (なかみこ) と共に反逆を謀って、国家を傾けようとした。死罪に当たる。しかし大恩を垂れて、死を免じて額に入墨の刑とする』と。その日に目の縁に入墨をした。時の人はそれを阿曇目 (あづみめ) といった。浜子に従った野島の漁師たちの罪を許して、倭の蔣代屯倉 (こもしろみやけ) で労に服させられた」

※野島の漁師
淡路島の野島に「野島海人 (のじまのあま)」と呼ばれる海女族集団がおり、彼らも阿曇族であったとされる。

 

磐井の乱

▶ 朝鮮半島では



日本との関係が深い地域だった任那 (みまな) が、新羅 (しらぎ) 百済 (くだら) から圧迫を受けていました。
512年、百済から任那四県の領有についての承認を求められた大伴金村 (おおともかなむら) は、それを承認します。大伴は当時、ヤマト王権の要職である大連 (おおむらじ) の地位にいて政権を握っていたのです。

527年、任那の東部のニ県が新羅に奪われます。

26代継体 (けいたい) 天皇は百済と手を結び、新羅に対抗するため、豪族の近江毛野 (おうみのけぬ) に6万人の兵を与えて任那に派遣しました。

それに対して、筑紫(九州北部)の豪族の磐井 (いわい) は反乱を起こします。海上を封鎖し、また北部九州の豪族を味方に引き入れ、ヤマト王権と交戦状態になったのです。

天皇は物部麁鹿火 (もののべのあらかび) を将軍として大軍を付け、討伐に向かわせます。

磐井軍と物部軍は筑紫の三井郡 (現在の福岡市小郡市、三井郡附近) で死闘を繰り広げました。
そして、ついに磐井は敗れ、麁鹿火に討たれます。
このとき阿曇氏は磐井軍に加担したとされています。

磐井の死後、その子葛子 (くずこ) 糟屋 (かすや) の屯倉 (みやけ) (現在糟屋郡付近)の地をヤマト王権に献上して許しを乞うたのです。
糟屋郷は、阿曇氏の支配地であった関係から、戦に敗退した阿曇氏は、この地から全国に逃亡します。その逃亡先の一つが信濃国安曇野ではないという説があるのです。

<磐井が反乱を起こした理由>
反乱軍には九州北部の多数の豪族が参加しました。この地域の豪族は、ヤマト王権が朝鮮半島に出兵するたびに、大量の物資や兵士を挑発され、不満を高めていました。
また、九州北部は古くから朝鮮半島との交易の中心地であり、豪族たちは自由に交流関係を築き、交易の利益や最先端の文化などを獲得していましたが、ヤマト王権は外交権を掌握し、地方豪族に自由な交流を許さなかったのです。
<岩戸山古墳>
磐井の墓とされる全長約135mの前方後円墳で、九州北部では最大規模です。石製の人物や馬が多数出土しました。

 

大将軍阿曇比羅夫

西暦7世紀半ば、阿曇氏は大和朝廷で重臣の地位を確保していました。

舒明 (じょめい) 天皇が亡くなった翌年の642年、阿曇連比羅夫 (あづみのむらじひらふ) が百済の弔使を伴って帰国します。

このとき、比羅夫は冠位12階制の3番目に当たる大仁 (だいにん) の位を得ていました。
同年6月24日、百済の王子翹岐 (ぎょうぎ) を比羅夫の家に住まわせています。

阿曇氏は、天皇の信頼が篤く、かなり高位にあったとされています。

 

白村江 (はくすきのえ) の戦い

朝鮮半島では高句麗と百済が連合して新羅に侵攻しました。
窮地に陥った新羅は、唐に援軍を要請します。
唐は新羅と連合軍を結成して、660年、百済に攻め込み、都を滑落させ、降伏した義慈 (ぎじ) 王を唐に連行してしまいます。

しかし、百済は再興を目指し、日本に滞在していた義慈王の王子・豊璋 (ほうしょう) の送還と軍事支援を日本に要請しました。
662年、大将軍大錦中 (だいきんちゅう) となった阿曇連比羅夫は、天皇の命により、豊璋を連れて、再び軍船170艘を率いて百済に渡ります。
そして、そこで豊璋を百済王位につける働きをしたのです。

 

663年、唐・新羅連合軍は、百済を攻め落とそうと、白村江 (錦江河口付近) に陣をしきます。
百済を守るべく、大和朝廷は廬原君臣 (いおはらのきみおみ) に1万余の兵を率いさせて、白村江で激しい戦いを展開しました。
しかし、日本軍は挟み撃ちに遭い、完敗に終わったしまいます。百済再興の望みは完全に断たれたのです。
このとき、阿曇比羅夫も参戦し、壮絶な討つ死にを遂げたのです。

 

穂高神社の「御船祭」は、この白村江の戦いを再現しています。玄界灘を行く軍船をかたどった船を各町が曳航し、最後は神社境内で御船どうしを激しくぶつけ合う。まさに白村江での戦いを再現しているのです。

 

穂高神社境内には阿曇比羅夫の像が建っています。

 

■ 安曇族関係地


全国に、安曇族に関係すると思われる場所がいくつかあります。
地名に「アヅミ」または「シカ」のついたところが関係が深いと思われます。
(「シカ」は志賀島から派生したものです。)

「安曇」「安住」「渥美」「熱海」「厚見」「明日見」「安積」「安角」などが挙げられます。


ある程度、確定できる場所に次の箇所が挙げられます。
・福岡県大川市酒見
・鳥取県米子市上・下安曇(かみ・しもあづま)
・兵庫県揖保郡太子町
・滋賀県高島市安曇川町
・愛知県田原氏渥美町
・長野県長野市川中島町・松代町

 

 

安曇族はどのようなルートで信濃に入ったのか


長野県安曇野市は海から遠く離れた内陸の奥深い場所にあります。
海から遠く隔たった安曇野に入るには、河川利用が最も合理的だったと考えられます。

それでは、どのように入ってきたのでしょうか?

①糸魚川から姫川を遡上した。
②天竜川、木曽川を遡上した。
③日本海側から関川または信濃川、千曲川、犀川を経て安曇野に入った。

穂高神社では、①の姫川遡上説をとっています。

糸魚川市成沢には穂高神社が鎮座しています。

そして、「なぜ、糸魚川か?」
それは、姫川流域は交易に必要なヒスイの国内有数の産地であるからなのです。

 

 

穂高神社


綿津見神を祖神 (おやがみ)として祀ったのが、海人族と言われる安曇氏でした。
綿津見神の息子とされる穂高見命も同様に安曇氏の祖神として奉斎されてきました。

文献に穂高神社が最初に登場するのは、859年『日本三大実録』です。
そして、927年に選定された『延喜式』に名神大社として記載されています。
このことから、すでに平安時代中期には創建されていた格式高い神社であることが分かります。

 

嶺宮・奥宮

穂高見命は、北アルプス最高峰で、日本で3番目に高い奥穂高岳 (標高3,190m) に天降 (あも) り、現在の安曇野開拓に功をたてた安曇氏が、穂高見命を奉斎したことから、穂高神社の歴史が始まります。

奥穂高岳頂上には、嶺宮が鎮座しています。石積みの上に祠を建て、祭神穂高見命が祀られているのです。

また、上高地※ の明神池畔には奥宮が鎮座しています。穂高連峰の一つである明神岳の麓にあたります。

※ 上高地は「神合地」「神降地」「神垣内」から転じた地名とされています。

(左) 明神池畔の奥宮近くにある嶺宮遥拝所  (右) 奥穂高岳山頂の嶺宮



<なぜ、穂高見命は穂高岳に?>
海の神がなぜ山に? しかも日本で3番目に高い穂高岳に天降ったのでしょうか?

志賀島神社の例祭「山誉種蒔漁猟祭 (やまほめたねまきかりすなどりさい)は、志賀島にある三山 (勝山・衣笠山・御笠) を褒め称え、種まき、鹿猟、鯛釣りの所作 (しょさ) を行い、豊漁を祈願します。

海人安曇族は、海の幸が天からもたらされることを知っていました。天から降る雨は山から流れ出し、里を潤し、豊穣な作物を育て、さらに川を下り海へと流れ込み、大漁の漁獲を人々に与えるのです。神から与えられた天から山、里、海へ、それを繰り返す大自然のサイクルこそ侵してはならないとして認識し、感謝の念を覚えたのであろうと考えられます。

 

穂高神社境内についてはこちらも参照してください ➩ 穂高神社境内

穂高神社御船祭の様子はこちらも参照してください ➩ 穂高神社御船祭