安曇族②

安曇族はどこから来たのか
 
前回の続きになります。
前回は中国の歴史について、春秋時代に、呉と越が長い間、戦っていたことに触れました。
その後、中国はどうなったのでしょうか? そして、日本との関りは・・・
安曇族や稲作の伝播など、いろいろな説が提唱されていますので、あくまでもその一説だと捉えてください。
 
(ご)

周の時代、周の太伯 (たいはく) 虞仲 (ぐちゅう) と共に南方の地に行き、呉 (句呉) を建てました。
(太伯は長男、虞仲は次男であり、三男に周の後継を譲ったのです。)
国号は句呉 (こうご)、国姓※ は姫 (き)

※国姓……君主の姓のこと。例えば、漢の劉(りゅう)、唐の李(り) など。

呉の活動時期は 前12世紀~前473年 です。

 

呉越戦争の後での中国は

<春秋時代>

呉と越は30年にわたり激しく戦いました。
そして、遂に呉は越に滅ぼされます (前473年)。

呉は優れた航海術を持っていて、呉の遺民の一部は日本にやってきました。

また、呉の遺民の一部は、長江(揚子江)から北上し、山東半島から徐州市あたりに住み着きました。

<戦国時代>

その後、越は楚に滅ぼされ (前306年頃)、越の一部遺民が北上します。
その結果、呉の移民は押し出されるように、朝鮮半島南部と九州北部に逃れます。
楚に滅ぼされた越もまた日本にやってきます。

 

<前漢王朝時代>

呉楚七国 (ごそしちこく) の乱 により、その避難民も日本にやってきました。

※呉楚七国の乱
前漢の時代、前154年、皇帝権力を強めようとする政策に対して、劉氏一族の呉王(劉邦の甥)ほか七国の諸侯王が起こした反乱(漢の劉氏同士の内乱)。
皇帝側が勝利し、ますます中央集権が一気に強まり、皇帝の直接支配地域が拡大しました。


中国の江南から対馬海流に沿って日本の北九州にやってくるルートは「対馬暖流ルート」(江南説) と呼ばれています。

 

海人族 (あまぞく)

「かいじんぞく」「わだつみぞく」など様々な呼び方がありますが、おおむね「あまぞく」と呼ばれることが多いようです。

優れた航海術や漁業の技術を持ち、海上輸送などの交易にもたけていました。

海人族にも様々な氏族がいます。「海部氏」「隼人氏」など。
その中でも注目すべきなのが「阿曇氏」です。

 

阿曇族

中国から九州北部にたどり着いた海人族は阿曇族と呼ばれました。
阿曇族の最初の本拠地は北九州の博多湾にある 志賀島(しかのしま) を中心とする地域だといわれています。
中国の長江(揚子江)の南を領域とした春秋時代の呉の人々が、呉越戦争で越国に敗れ、船で大海に乗り出し、黒潮、対馬海流に乗って志賀島にたどり着いたと考えられます。

そして、縄文時代の古代日本に、水田稲作、青銅器、弥生式土器などが定着し、縄文時代から弥生時代へ入っていきます。

※弥生時代の「弥生」という名は
明治17年(1884年)、東京本郷弥生町(現在の文京区弥生)で、この時代が存在することを決定づけた土器が見つかったことによります。

 

志賀島 (しかのしま)
 

九州の福岡市、博多湾北部にある島です。古代から、日本と大陸・半島への海上交易の出発点として重要な位置を占めてきました。

▼ 志賀島全図

志賀島の東南端に志賀海神社 (しかうみじんじゃ) が鎮座します。
ここでは綿津見神を祀っています。
古くは、島北端の勝馬の地に、三宮に分かれて祀られていました。

▼志賀島北端図

綿津見神は、表津 (うわつ)仲津 (なかつ)底津 (そこつ) の三神を総称して呼ぶ神でした。

伊邪那岐命 (いざなきのみこと) が阿波岐原 (あわきはら) で禊祓い (みそぎはらい) したとき
海の底にもぐって誕生したのが 底津綿津見神 (そこつわたつみのかみ)
海の中ほどで誕生したのが 仲津綿津見神 (なかつわたつみのかみ)
海の表面で誕生したのが 表津綿津見神 (うわつわたつみのかみ)
です。志賀海神社では、三宮で祀られていました。
表津宮……表津綿津見神
仲津宮……仲津綿津見神
沖津宮……底津綿津見神

表津宮が安曇磯良 (いそら) ※1 によって、2世紀から4世紀の間に現在地に遷座されたと伝えられています。
同時に他の2神も一緒に奉祀されたのです。
現在、仲津宮・沖津宮は志賀海神社の摂社※2 となっています。

※1 安曇磯良
安曇氏の祖とされています。
※2 摂社(せっしゃ)
神社本社とは別に、その神社の同一の境内または神社の周辺の境外にある小さな神社のことです。末社(まっしゃ)ともいいます。


綿津見 の「綿」は古名では「海」を指す語です。「海の神様」とされています。

志賀海神社 (しかうみじんじゃ)


現在の志賀海神社には
中殿に……主神 底津綿津見神
左殿に……仲津綿津見神
右殿に……表津綿津見神
が鎮座しています。
志賀海神社は「龍の都」または「海神の総本社」と呼ばれ、海を守る神社として崇敬され、志賀島全域が神域となっています。

 

金印 (国宝)

▼志賀島南部にある「金印出土地公園」

志賀島からは「漢委奴国王 (かんのわのなのこくおう)と刻まれた金印(国宝)が江戸時代に発見されました。

『後漢書』東夷伝によると、「紀元57年に、北九州の倭 (わ) の奴国 (なこく) の王が、後漢の光武帝 (こうぶてい) に使者を送り、金印を与えられた。」とあります。

※倭の奴国
「倭国」……中国からみた日本の呼び名のことで、日本全体を指します。
「奴国」……倭国は30くらいのたくさんの国に分かれていましたが、その小国のことを指します。

 

稲作の伝播について

稲にはいくつかの種類があります。水稲耕作に適したのが「温帯ジャポニカ」という種類の稲です。これは日本列島には自生せず、日本列島以外からもたらされた外来作物です。その起源地は「中国大陸の長江中~下流域」とする説が定番になっています。


では、どのように日本列島に伝播したのでしょうか。

①朝鮮半島の東端を経由して伝わった。
②中国の江南地方から直接に伝わった。
③南西諸島を北上して伝わった。

などのいくつかの説がありますが、考古学や植物学では、②の江南地方からの伝来説が有力視されています。朝鮮半島から伝わった稲と、江南地方から持ち込んだ稲とはDNAが違うことが判明しています。

水稲耕作は、縄文時代晩期に北部九州で始まり、弥生時代に全国的に普及していったのです。

 

安曇族について、さらに次回に続きます。