ものぐさ太郎

■  ものぐさ太郎


前回、穂高神社に碑のある「ものぐさ太郎」の話をしました。
穂高神社境内では2ヶ所が関係します。
「ものぐさ太郎の碑」「若宮社」です。


穂高神社境内にある "ものぐさ太郎"の碑 (レリーフ)

 

でも、ものぐさ太郎の人物の銅像は境内にはありません。
どこかにあるのでしょうか~
調べてみました。
ありました!
松本市の新村、松本大学近くにありました。

ものぐさ太郎の屋敷跡といわれています

 

ものぐさ太郎とは、どのようなお話なのでしょうか。
碑の近くに住む人は、以前は親から何度も聞かされて語り継がれてきたといいます。
見て行きましょう。


■「ものぐさ太郎」民話

昔、筑摩 (ちくま) の郡 (ごおり)、新 (あたら) しの郷 (ごう) ※1 というところに、ものぐさ太郎というずくなし※2 が住んでいた。
ものぐさ太郎は、道端に4本の竹を立てて、その上にこも(むしろ)をかけただけのものの中に寝ころんで、食べ物の心配もせず、仕事の心配もせず、何を考えているのか毎日空をながめて暮らしていた。

ある日のこと、情け深い人が気の毒に思って大きな餅を五つ恵んだ。
太郎はすっかり喜んで、そのうちの四つまではみるみるたいらげてしまったが、最後の一つをもてあそんでいるうちに、ころころと往来へ転がしてしまった。
太郎は首をのばしたが、取りにいくのも面倒くさがり、誰か人が通ったときに取ってもらおうと、3日ばかり犬や鳥の寄るのを竹の棒で追っぱらいながら餅の番をしていた。

※1
あたらしの郷:新村 (にいむら) のこと。郷は里。
※2
ずくなし:信州の方言で「怠け者」の意味。

 

4日目の朝のこと、この地方の地頭(じとう)である左衛門尉信頼という武士が家来を50~60騎ほど引き連れて通りかかった。
それを見ると太郎は大声を上げた。
「もうし、おたのみしますに、そこに餅が一つ転がっている。そいつをちょっと取ってくだされ」
しかし、信頼はもとより、武士たちが立止まることなく通り過ようとした。太郎は思わず叫んだ。
「あんなずくなしがよくまあ地頭さまだなどと言っている。あの餅を馬から降りて取ってくれるのが、よほど面倒くさいのか。おれ一人がものぐさだと思っていたが、おれよりものぐさな人がいるとはたまげたこんだ」
この大声が左衛門尉の耳に入った。左衛門尉は怒りもせず、馬をとめて、太郎のそばに寄っていった。
「そちのことか、ものぐさ太郎とは。さて、そちはどのように暮らしておるぞ」
と問うたところ
「そうだな、人が食べ物をくれるまでは、四日でも五日でも寝ころんでいる」
「ふびんなことじゃ、所もあろうにわしが所領に生まれ合わせたのも縁があるからであろう。百姓をしてはどうじゃ?」
「土地などない」
「土地ならばつかわそう」
「ものぐさいから、土地などいらない」
「それでは商いをしてはどうだ?」
「元手(もとで)もない」
「元手ならつかわそう」
「今さらやってもないことをやるのはいやだな」
泣く子と地頭さまには勝てないという、その地頭さまを前にして寝ころんだままものを言っている太郎のものぐさに興味を覚えた左衛門尉は
「こいつ、見所のあるやつ」
と、硯と筆を取り寄せると立札を書き、早速おふれを出した。それには
"ものぐさ太郎に毎日三合飯を二度食わせ、酒を一度飲ませよ。もし怠る者は我が領内には留め置かぬ"
としるされていた。
百姓たちは呆れてしまったが
「地頭さまのいいつけでは仕方ない」
と、毎日毎日太郎に飯を食わせ、酒を飲ませて養ってやった。

 

こうして、3年の月日が流れた。
信濃国の国司、二条大納言 (にじょうだいなごん) 有季 (ありすえ) が京都にのぼることになって、このあたらしの郷に長夫 (ながふ) をあてられた※1
長夫とは長い間夫役(ぶえき)にいくことで、妻子に別れをつげ、田畑をおいて奉公に出なくてはならないため、誰も行こうという者はなかった。
百姓たちはどうすればいいかと相談のあげく、太郎に行ってもらおうと話が決まった。
そこで百姓たちは連れだって、太郎の小屋にやってきた。
「太郎よ、わしらに大したくじが当たったんだが、ひとつ助けてくれないか」
ものぐさ太郎はこの日も寝ころんで春の空を眺めていた。
一ひら浮いた白い雲が、いつの間にか青空にとけていく。太郎にはそれが不思議でならない。
「これを何とかうまく、歌に詠みたいものだ」
太郎は独り言を言った。
百姓たちは首を振った。
この太郎ほど馬鹿げた男はいない、たまに口利くかと思えば、歌が詠みたいだと。歌なんぞ食えもしねえし身にもならないと、またでかい声を出した。
「太郎よ、おらたちの郷が長夫にあたった。おめ、一つ行ってくれないか」
太郎はやっと百姓たちを眺めた。
「長府? それはどの位長いものだ?」
「長いの短いのということじゃない。このあたらしの郷の百姓の中から誰か一人、都へ御奉行にのぼることをいうのだ。太郎、一つお前が行ってみないか」
そこで百姓たちは口々に、都の美しさ、住む人の優しさを話して聞かせた。
「本当に都にはきれいな塔やお寺があるそうだ」
「女子(おなご)もきれいな女子ばかりだと。太郎も嫁さまを帰りに連れてきたらいいぞ」
「都の人は、道一つ聞くにも歌よんで聞くんだそうだ。太郎よ、お前は確か歌は得意だったな」
「何しろ歌のうまい男は、きれいな女子が寄ってくるそうだ」
「なあ太郎よ、一つ都へのぼってみねえかい」
太郎はたまげてその話を聞いていた。歌を詠んで暮らすというのも気に入れば、美しい女子がいるというのも気に入った。
「それでは、行ってみるか」
太郎がのそのそ起き直ったので、百姓たちはすっかり喜んで、気の変わらぬうちにと笠や杖を持たせ、弁当をつくり、7日後には都へ出してやった。
※1
あてる:割り振る

 

都へ来てみれば、都の美しさはたとえようもない。東山西山の眺め、その間に建つお寺や塔の見事さ、行き交う人の優しさ、ものぐさ太郎は眼が覚めたようで、今までのものぐさはどこへやら、生まれ変わったようにまめまめしく、仕事に励むようになった。
大納言もすっかり太郎が気に入り、熊のような男ながら、すぐれた歌も詠む不思議なものと、目をかけた。
そして7ヶ月ばかり経ち、11月に入ってから暇 (いとま) が出て、国へ帰るお許しが出た。
さて、国へ帰ることになり、以前に国を旅立つときに
「都の女子を嫁様にして戻れ」
と口々にいわれたことが思い出された。
しかし、熊のような太郎の嫁になろうという京の女子はいない。
どうしたらいいかと宿の主人に相談すると、宿の主人は面白半分に
「清水寺へ行って立っていなさい。参詣する女子も多いから、よい嫁御も見つかるであろう」
と教えた。
太郎は大変喜んで、11月18日のこと、清水寺へ出掛けてのっそり立っていた。
何色とも分からぬかたびら※1 に、わらなわ※2 の帯をしめ、竹の杖をついている太郎の姿は何とも山男のようで、都の人たちには怖ろしく見えたのであろう。
近づいてから慌てて引き返す者もあり、遠まわりして避けていく者もあり、誰一人として寄ってくる者はいない。
太郎もまた、都の女子は美しと聞いたが、よくよく見れば自分の心にかなう女子はいないものだと、朝早くから夕暮れまで、鼻をすすって立ち尽くした。
こうして、日もだんだんと暮れようとした時、大門をくぐって17,8 の女の人が供の童を一人連れて静かにこちらへ歩いてくるのを見つけた。
その姿の優しさ、清らかさに、太郎は思わず走り寄ってたもとを押え
「もうし、おらは信濃国、あたらしの郷のものぐさ太郎という者だ。朝からおらの女房になる人を待って待って待ち尽くし、やっとお前さまを見つけた。どうかおらの嫁さまになってくれ」
と夢中になって言った。
女の人は気を失いそうに驚きながら
「から竹を杖につきたるものなれば
  ふしそいがたき人をみるかな」
と息もたえだえに申した。太郎はすぐに
「よろず世の竹のよごとにそうふしの
  などから竹にふしなかるべき」
と答えて、なおもたもとをしっかりとつかまえようとした。女の人は
「はなせかし、あみのいとめのしげければ
  この手をはなせ物語りせん」
と詠みかけて太郎が手をはなしたすきに
「思うなら、問いてもきませ我が宿は
  からたち花の紫の門(かど)」
と詠み残したかと思うとたもとをひるがえし逃げ去ってしまった。
太郎はあわてて追いかけたが、もうあたりは暗く、人ごみにまぎれて女の人の姿は見当たらなくなった。
太郎は涙をぼろぼろこぼしながら、また清水寺に帰ってきて
「さっきおらはここにこう立っていた。そこへあのきれいな姉さまが大門をくぐってこう出てきて、東の方を向いてこうしゃべっとった。そしてこういうふうに逃げた」
と、もう一度こまごまと思い出してはうろうろと歩きまわった。
すると、ふと女の人が逃げる際に残していった歌が思い出された。
「そうだ、確かからたち花の紫の門といった。そこを探せばいいに違いない」
太郎は急に元気づいて、あちこちたずね歩き、7日目になってようやく七条の末にある豊前頭 (ぶぜんこう) の殿の屋敷を探し当て、庭先に忍び込んだ。
女の人はそこに仕える侍従の局という名の者だった。
侍従は庭先にぽかんと立っているものぐさ太郎を見て驚いた。
つくづく見ればあかにまみれ、ひげぼうぼうの山男ながら、どこか気品もあり空のようにくもりのない瞳をしている。
こうまで慕われるのも我身の縁かもしれないと、そっと太郎の手をとって廊下へ導いた。
こんな立派な御殿へあがったことのない悲しさで、すべったり、ころんだりしながら侍従の部屋に通った太郎は、そこでもつるりとすべってひっくり返り、大切な琴を真っ二つに割ってしまった。
侍従は悲しげに琴を見ていましたが、思わず
「きょうよりは、わがなぐさみになにかせん」
とつぶやきました。太郎はうなだれて
「ことわりなればものもいわれず」
と返した。
その心根の優しさに、侍従は何もかも忘れ、太郎こそ我が夫と思い決めて、7日間風呂に入れて磨き上げた。
すると、なんと見違えるほどの美男子となった。
さらに男の礼法を教えると、ついに太郎はいかなる殿上人に増して優れて見えるようになった。
※1
かたびら:(帷子) ひとえの着物
※2
わらなわ:(わら縄) わらで作った縄

 

その評判はやがて帝 (みかど) の耳に届き、席に呼ばれる機会を得た。
帝が歌を一首仕れとの仰せがあったので、太郎は即座に一首詠みあげた。
「うぐひすの濡れたるこえの聞ゆるは梅が花笠もるや春雨」
帝がこれを見て、「汝の郷でも梅と呼ぶか」 と尋ねた。
「信濃にはばいくわ (梅花) といふも梅の花都のことはいかにあるらむ」
と返した。
あまり見事なので、帝はいっそうの関心を持ち、信濃国について太郎の素性を調べてみると、
54代仁明天皇(810-850)の皇孫である二位の中将が、故あって信濃へ流され、永年を過ごすが、子どもがいなかったため善光寺如来に祈ったところ一人の御子をさずかった。間もなく3歳のときに父母は世を去られ、太郎は卑俗の者に交わって物臭となったことが明らかになった。
太郎は信濃中将の宣下 (せんげ) ※1 を受け、信濃と甲斐の二国をたまわり、女房と共に信濃に下り、 (あさひ) の郷に住居した※2
あたらしの郷の地頭左衛門尉信頼を両国の総政所に用い、また恩を受けた百姓にもそれぞれ所領を与え、自らはつかまの郷に家を建て、けんぞく※3 多く世に敬われ、国内平和、神仏の加護を受け、120年の長寿を保ち、長寿の神となった。
中将は「おたか(をたか)の大明神」※4、女房は「あさひの権現」として現れた※5
※1
宣下:天皇の意向を下達すること。
※2
東筑波田 (はた) 村の説もある。
※3
けんぞく:一族の者
※4
「おたか」について次の項を参照
※5
すなわち、神格までのぼりつめたことを意味する。


 

 

■ 御伽草子 (おとぎぞうし)


「ものぐさ太郎」は御伽草子の一つですが、御伽草子って?
「浦島太郎」「一寸法師」などあまりにも有名な御伽草子のお話です。
「物くさ太郎」もそれに並ぶ作品です。

御伽草子とは、室町時代から江戸時代初期にかけて書かれた短編小説。
その中から23編が選ばれて絵入りで刊行されました。
主に室町時代に多く書かれ、町衆たちに読まれたのです。
一般庶民層のある主人公の立身出世を描いたもの、神仏の加護や霊験を語るもの、この世ならぬ異界の土地を遍歴するものなど。
そして、その一部は今の「おとぎばなし」の元にもなっているのです。

 

23編の御伽草子にはどんなお話があるの?

●文正草子   ●鉢かづき   ●小町草子   ●御曹司島渡(わたり)   ●唐糸草子   ●木幡(こはた)狐   ●七草草子   ●猿源氏草子   ●物ぐさ太郎   ●さざれ石   ●蛤(はまぐり)の草子   ●小敦盛   ●二十四孝   ●梵天国(ぼんてんこく)   ●のせ猿草子   ●猫の草子   ●浜出(はまいで)草子   ●和泉式部   ●一寸法師   ●さいき   ●浦島太郎   ●横笛草子   ●酒呑童子


どれだけ知っていたでしょうか?
あれ!? 「桃太郎」は? 一覧に桃太郎は出ていません。
御伽草子は主に室町時代に作られたものですから、桃太郎は意外に新しいと言えるのです。

 

■ おたか

「おたか」はどこを指すのでしょうか?
「おたか」を穂高とする説が多いといえます。
他にも、お多賀(松本市出川の多賀神社、筑摩郷内にある) とする説もあり決定していません。ただ、穂高神社には古くからその伝承が残っており有力であるといえます。
「若宮社祠」がものぐさ太郎明神であるといわれています。
おたかの大明神は前世結ぶ神であり、神の御前に参る男女の恋を叶えるといわれています。

 

■ 再び穂高神社

穂高神社にある若宮社 (わかみやしゃ) には
相殿神として信濃中将 (しなのちゅうしょう) が祀られています。
前回の記事「穂高神社③」参照

 

■ 穂高に"ものぐさ太郎"の塚があった

穂高神社境内の碑や松本市新村の碑に比べて、目立たなくひっそりとした場所に塚がありました。JR大糸線穂高駅から西へ500mほど行ったところに、それはありました。