八面大王①

有明山に鬼が出る !?

 

「有明山に鬼が出る!」
昔、この地域の子どもたちは、両親からそう聞かされていたらしいけど、鬼が住んでいたの?

穂高有明を中心として周辺の地域に広く言い伝えられていたんだ。
その話は「八面大王伝説」と呼ばれていたんだ。
八面大王というのは魏石鬼 (ぎしき) の別名なんだ。

怖そうな顔をしている八面大王だね。
大王って呼ぶくらいだから強いんだろうね。

良い鬼なの? 悪い鬼なの?

それは鬼伝説と英雄伝説の両方があるんだ。
今回は鬼伝説についてお話しよう。
まず、どこに鬼が住んでいたか、地図で確認しておこう。

有明山神社に近い場所なんだ。有明山神社の隣りに正福寺 (しょうふくじ) というお寺があるんだけど、そこからしばらく山の中へ入ったところに、その場所があるんだ。魏石鬼の岩屋 (ぎしきのいわや) と呼ばれているんだ。

 

 

有明山神社の隣りに真言宗の正福寺が建っています。

 

その本堂を右手に進むと、細い山道が続いています。

 

山道を進みます。道に沿って並べられている石仏を眺めながら、しばらく進んでいくと、美しい佇まいの観音堂が現れます。
観音堂の下に降りると、巨石の岩が現れ、そして洞窟が見えてきます。

 

洞窟の真上に、先ほどの観音堂が建っていたわけです。
これが魏石鬼(ぎしき) の岩屋(いわや) と呼ばれる、八面大王という鬼が立てこもった隠れ屋だと伝えられています。

 

 

さらに、その岩屋から下に降り、沢を越えて目に入ってくるのが
鬼の足跡 (八面大王の足跡岩) といわれる、これもまた大きな岩です。家来の小鬼が住んでいたともいわれています。

 

■ それでは八面大王の鬼伝説を見ていこう
昔、50代・桓武天皇 (かんむてんのう) (在位781-806)の時代、有明山の麓、宮城の岩穴に八面大王という大鬼が、大勢の子分の鬼を従えて住んでいた。 魔力を使って雲を起こし、雨を降らせ、天地を飛行し、地にもぐることもできた。 また、里へ出ては人々をさらったり、宝物を盗んだり、お寺やお宮を壊すなど、手のつけられない乱暴を働いた。
村人は、鬼からの乱暴を恐れ、毎日びくびく暮らしていた。

近くの古厩村矢村に、おさく弥助 (やすけ) という母子が住んでいた。 父の弥左衛門は、弥助が小さい頃、有明山へ薬草を採りにいったまま八面大王に襲われて帰ってこなかった。 母の手一つで育てられた弥助だが、心優しくすこやかに成長していった。

 

20年の年月が過ぎ、弥助は立派な若者に育った。 12月28日のこと、弥助は穂高の町へ正月の買物に出掛けたが、とある松林の木陰で罠にかかって苦しんでいる大きな山鳥を見かけた。弥助はかわいそうに思い、懐中にあった5百文を罠に結びつけて、山鳥を放してやった。弥助はそのまま家に引き返したが、母親はいい事をしたと喜んでくれた。 それから3日目の年取りの晩、雪の降る中を道に迷った一人の美しい娘が家の戸を叩いた。 この娘を家の中へ招き入れ介抱したことがきっかけで、やがてこの娘は弥助の嫁になった。 夫婦仲は睦まじく、娘は母親によく仕えた。春のような楽しい毎日が続き、親子3人は仲良く暮らしていた。

 

その頃、八面大王のうわさは都まで聞こえ、桓武天皇は奥州の蝦夷を征伐に向かう征夷大将軍・坂上田村麻呂 (さかのうえのたむらまろ) ※1 に大王の討伐を命じた。時は延歴20年(801)であった。 しかし、魔力を持つ大王は、矢が当たっても跳ね返してしまい倒すことができない。 そこで、将軍は苦戦をし、満願寺でお祈りをしたところ、満願の夜、観音様が現れて 「甲子(きのえね)の年、子の月、子の日、子の刻(こく)に生まれた男子が33節(ふし)の山鳥の尾を矢にすれば退治できる」と告げられた。
※1
坂上田村麻呂
758年~811年
平安時代に活躍した武将で、武術に秀でており、数多くの戦いで功績をあげた。
桓武天皇より征夷大将軍に任命される (797年)。
大和朝廷が異民族と見なしていた東北地方に住む「蝦夷(えぞ、えみし)」を平定した。


ただし、将軍がこの地に実際に立ち寄ったかは定かではない。

将軍はその男子を探すが、やがて、弥助が探していた男子であることが分かった。 将軍に呼ばれた弥助は快く引き受けたが、山鳥を見つけるすべもなく途方に暮れた。 話を聞いた嫁は「私に心当たりがあります」と言って、外に走り出ていった。 次の日、嫁は、青ざめて帰ってきて、弥助の前に33節の山鳥の尾を差し出した。 そして、静かに手をついて言った。 「私は前に助けていただいた山鳥です。33節の尾は私のものです。ご恩返しもできので、山に帰らせていただきます。お幸せに。」 そう言って、嫁の姿はいなくなった。残された母子の嘆きははかりしれないものであった。 弥助はそれで3本の矢を作り、将軍に捧げた。

 

将軍と大王の戦いは再び始まった。 将軍は有明山の闇ヶ沢から合戦沢 ※1 へ攻め登って大王を追い詰めた。 大王の第一の子分の常念は、難所から岩石を雨あられのように投げ落とした。 大王は黒雲を呼び、姿を見えなくした。
将軍は山鳥の矢を弓につがえ、心中に「南無観世音(なむかんぜおん)」と祈って矢を放った。 矢は大王の胸板を射通し、大王は雲の中からまっさかさまに落ちた。 二の矢は常念の両股に当たり、常念は岸壁から落ちた。
将軍は大王の首を、鬼切丸(おにきりまる) の名刀で斬り落とした。 二重の箱に納められた大王の遺骸は「八面大王大明神」の旗を立てて里に持ちくだり、安曇野で最も低い湧水の地である塔ノ原 ※2 に塚を築き葬られた。 子分の常念は坊主となり、烏川の谷を登り、常念(坊)岳から八面大王の菩提をとむらった。 将軍は有明宮城の魏石鬼の岩屋の上に、観世音の堂 ※3 を建立した。 そして将軍は、弥助の名は矢助に、その村を矢村 ※4 にするように告げた。 こうして、安曇野の村々にようやく平和が戻った。

 

※1
合戦沢



※2
塔ノ原 (現在の塔ノ原の場所を示すバス停) 遠くに有明山が見える。


「安曇野で最も低い湧水の地である塔ノ原」とは、現在の御宝田(御法田)一帯をさしていると考えられる。
また、大王の頭は「頭(塔)の原」へ埋めたとされ、ここから「塔ノ原」の地名が生まれたとも言われている。

 

※3
観音堂

 

※4
北矢村公民館近くに建つ矢矧三宝大荒神社 (やはぎさんぽうだいこうじんじゃ)

 

最後の場面で、大王が蘇ることの無いように、五体をバラバラにしてそれぞれ埋めたと言われている。
  首は筑摩神社 (つかまじんじゃ) (※1) に埋葬 (首塚)
  耳は耳塚 (みみづか) (※2) 埋葬
  脚は立足 (たてあし) (※3) 埋葬
  胴体は御法田(ごほうでん) のわさび畑 (別名大王農場) (※4)
大王は敗戦とともに白狐と化し、犀川に近い川島の郷(穂高)に逃げたが、ここで捕まり首をはねられたので、川島の郷を狐島 (きつねじま) (※5) と呼ぶようになった。
大王をとむらい念仏を上げた際、常に念仏が聞こえる山、それが安曇野の空高くそびえる常念岳(じょうねんだけ) である。

 

※1
筑摩神社 (つかまじんじゃ) 松本市にある。

筑摩神社はかつては「八幡宮」と称していた。創建は延歴13年(794)。
坂上田村麻呂は、八面大王を退治するために石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう) に参籠(さんろう) し、「この地に八幡宮を祀れば大願成就(たいがんじょうじゅ)する」との神託をうけて建立。その結果、見事に八面大王を退治することができた。
再び蘇らないように、筑摩神社の境内に首を埋めた。
現在は、八面大王の首塚は「飯塚」 の名で呼ばれている。
また、社号も地名ではなく 「塚摩」が転じて「筑摩」となったという説もある。

 
※2
耳塚 (現在の耳塚の場所を示す地名表示) 大塚神社(おおつかじんじゃ)

大塚神社は現在、地元では "耳の神様" で有名となっている。祠の中には、たくさんの "耳かき" が供えられているとのこと。
その昔、この地に住む夫婦の息子が高熱を出し、その結果、耳が聞こえなくなってしまった。そこで、大塚神社にお参りしたところ、大塚様が夢の中に現れ、祠の中にあるウツギ(落葉低木)の枝に竹を刺して耳かきを作り、それで耳を掘るようにとのお告げがあった。その通りにすると、なんと耳が聞こえるようになったという伝承があった。

※3
立足 (現在の立足の場所を示す地名表示) 遠くに有明山が見える。



※4
大王神社

(大王神社については次回述べます。)

※5
「狐島」の地区を示す標識 (左) と 狐島地区公民館 (右)


狐島にある白狐神社(びゃっこじんじゃ) (左) と 八面大王の塚 (右)


今回は八面大王の「鬼伝説」をお伝えしました。
次回はもう一つの「英雄伝説」をお伝えしましょう!