乳川

 乳川を追って


前回は、高瀬川梓川が合流し、そこに穂高川も加わって、一つの犀川になるという話をしました。
(ちなみに、犀川は長野市で千曲川に合流し、千曲川は新潟県に入って信濃川と名称を変えて日本海へと注いでいきます。)

ところで、「乳川 (ちがわ) 」 「乳房橋 (ちぶさばし) 」って?

この不可思議な名前を調べるために、今回は穂高川に焦点を当てて追ってみましょう。
穂高川もいろいろな川が注ぎ込んで一つになっていきます。
さて、穂高川って、どこを指すのでしょう?
まずは地図で確認しましょう。



よく分からないですね。
それでは、川の区別がつくように色をつけてみます。

 

さらに、橋も多く出てきますから、橋の名前もつけてみます。


これですっきりしました。
穂高川を、川の流れに沿って上流から合流地点に向かって見るのではなく、
合流地点から上流に向けて、さかのぼる形で見ていきます。

▼ 合流した後の犀川を振り返って見た写真です。(川上に向かって見ています。)
結構、水かさが多いですね。
遠くに見える橋が「犀川橋」です。


▼ (左) 犀川にかかる「犀川橋」です。
(右) 川下に向かって見ています。向こうに見えるのが犀川橋です。


▼ 前回出てきました、3つの川が合流する地点です。(川上に向かって)
左奥から流れてくるのが梓川(既に名称は犀川になっています)、中央の川が穂高川、右が少し分かりづらいのですが高瀬川です。


▼ 高瀬川と穂高川がここで合流するのですが、木が茂っていてよくわかりません。


▼ 穂高川の「常盤橋」辺りから眺めた写真です。
烏川 (からすがわ) が穂高川に合流します。川の向こうの木が茂っている辺りです。


▼ 穂高川の「乳房橋」です。


▼ (左) 乳房橋です。   (右) 乳房橋から川下を眺めました。

 

乳川は穂高川のもう少し上流の呼び名で、ここは穂高川と呼ばれています。
それでは何故、「乳房橋」と呼ばれるのでしょうか。
川の名称について、乳川と中房川が合流していることから
乳川の「乳」と、中房川の「房」をとって
かつては「乳房川」と呼ばれていたのです。
乳房川にかかる橋なので「乳房橋」と名付けられたのですね。

 

さて、この橋は、ある物語の舞台にもなりました。
その話は、後の「乳房橋にて」をご覧ください。


「乳房大橋」「細野橋」の中間辺りです。
ここで、中房川 (中央奥から流れてきます) が穂高川に合流します。


「細野橋」で乳川と芦間川 (あしまがわ) が合流し穂高川となります。
(左) 細野橋
(右) 上を流れているのが乳川、下を流れているのが芦間川 合流した川は右方向に流れていきます。


▼「細野橋」横に建てられた案内板です。


▼ 乳川の「大泉寺橋」です。

橋の横の案内板には、乳川のいわれ (乳川物語) が書かれてあります。抜き出してみましょう。

乳川は餓鬼岳に源を発する川ですが、その源をたどって行くと、餓鬼岳の東側面の大きな二つの岩にぶつかります。その岩はちょうどお母さんの乳房の形をしている所から乳岩といわれ、そこからポトポト落ちる水が集まって流れるところから乳川といわれるようになったそうです。

 

「神戸橋」です。

この橋の横には、「舟方さまと鈴虫」の物語の案内板があります。


▼ 大泉寺橋から大門橋までの、乳川の様子です。


「大門橋」です (左)  ちひろ美術館(広場)の脇を川は流れていきます (右)


▼ 乳川の「新檀行橋 (しんだんぎょうば)で、川は西に向かって大きく曲がります。
「国営アルプスあづみの公園」のある方向です。


餓鬼岳 (がきだけ) が遠くに見えています。そこから乳川は流れてくるのです。

 


「あづみの公園」を通り越し、さらに車で行けるところまで行ってみました。


▼ 乳川の様子です。川が白みを帯びているのがお分かりでしょうか。

 


上流に行けば行くほど、花崗岩が多く見られるようになります。
花崗岩の白い岩、乳白色の川の水が印象的でした。
「乳岩」なるものを確認したかったのですが、とても無理そうなので、今回はここで断念しました。
「いつかまた来ます」 そう餓鬼岳に言い残して戻りました。
「乳川 → 穂高川 → 犀川」 短くも長い旅でした。

 

 

 乳房橋にて  ~上原良司~




上原 良司
(うえはら りょうじ)
をご存知でしょうか。
太平洋戦争時、特攻隊員として22歳の若さで亡くなりました。
彼の名が有名なのは、特攻隊員として出陣前夜に書き残した『所感』が、敗戦後の我が国民に自由主義の国づくりを訴えるメッセージとして高く評価されているからです。

この『所感』は岩波文庫より出版された戦没学生の手記集「きけ わだつみのこえ」の冒頭に掲載されています。

上原良司について、記載しておきます。
1922年9月、池田町に医師の父寅太郎の三男として生まれました。
その後、有明耳塚に移り、有明医院を継いだ上原家で、文化的な雰囲気の中で育ちます。
松本中学校(現深志高等学校)、慶應義塾大学経済学に進学しますが
1941年12月に太平洋戦争が始まります。
大学生の徴兵猶予は停止となり、学徒出陣となったのです。
彼の学業への道は断たれました、21歳のときです。
1943年12月、松本歩兵第50連隊に入隊。その後、飛行操縦訓練を開始しますが、そこでの極限の生活体験などにより、自由主義の正しさを確信したと言われます。
1945年5月11日、陸軍特別攻撃隊員として沖縄嘉手納沖の米海軍機動部隊に突入し、命を落とすのです。

彼には兄が2人いました。
長男は慶應義塾大学医学部卒業後、陸軍軍医となりましたが、終戦直後の1945年9月にビルマで戦病死。
次男も医学部卒業後に海軍軍医となりますが、1943年に南太平洋で戦死しました。
上原家の優秀な3人の兄弟は全員が戦争によって命を失ったのです。
有明医院は、妹が医師の夫と結婚し引き継ぎました。

 

2006年、故郷の池田町(あづみ野池田クラフトパーク)に上原の記念碑が建立されました。

 

 

 

『所感』の一部が碑文に刻まれています。

自由の勝利は明白な事だと思います
明日は自由主義者が一人この世から去ってゆきます
唯願はくば愛する日本を偉大ならしめられんことを
国民の方々にお願いするのみです

 

さて、そんな上原良司と有明にある乳房橋との関係について記載します。

 

上原は特攻が決まり、突撃前に許された束の間の休暇を乳房橋から300mほど西にある穂高有明耳塚の実家で過ごします。
そして「日本は敗れる。俺が戦争で死ぬのは愛する人(達)のためだ。戦死しても天国に行くから靖国神社にはいないよ」と言って家族をはらはらさせました。
しかし、特攻隊員に選ばれて出撃状態であることは何も告げなかったといいます。
軍隊に戻るとき、見送る家族の姿が遠くになった乳房橋のたもとから、「さようなら」と三度も大きなに声で繰り返し別れを告げたといいます。
良司の母親は、それまでに聞いたことのない大きな声に、「良司は死ぬ気でいるんだな。最後の別れに来たんだ」と悟ったといいます。
その一年後、小さな壺に入った良司の遺品が乳房橋を渡って、故郷に戻ったといいます。