穂高神社③

穂高神社境内散策


今回は穂高神社の境内を散策してみましょう。
そのための案内図を示しておきます。

穂高神社の境内図です。(神社内に掲示されていた案内図より)

     ⇩

境内図に手を加え、今回の記事紹介の番号を付加しました。


一の鳥居
表参道の石製の鳥居です。社号額 (扁額 へんがく)には、薄れていますが「穂高神社」と刻まれています。

 

ニの鳥居
神楽殿の前に建つ白木の鳥居です。こちらには、はっきりと「穂高神社」とあります。2019年に215年ぶりに建て替えられました。

(左) 参道から神楽殿に向かって  (右) 神楽殿から参道に向かって


狛犬 (こまいぬ)
「ニの鳥居」前の狛犬です。右の阿形 (あぎょう) と左の吽形 (うんぎょう) の形で彫られています。

 

神楽殿 (かぐらでん)
2016年に建て替えられました。ガラス戸を設置し多目的利用を可能としました。きれいな総欅 (けやき) 造りです。

 

拝殿 (はいでん)
左右に長い拝殿で、厳かな雰囲気に包まれて、厳粛な気持ちになります。
2008年に127年ぶりに建て替えられました。白木で美しい造りになっています。


拝殿の中をちょっと覗き見しました。巫女さんが動き回っていました。

 

本殿 (ほんでん)
拝殿の後方にあります。回り込んで見ることができなかったため、拝殿からガラス窓越しに本殿を写してみました。三棟の本殿が見えます。三殿方式といって、向かって右から左殿中殿右殿と続きます。さらに右殿の左側 (写真では見えません) には別宮 (べつぐう) があります。

本殿については、別の機会に詳しく述べます。


孝養杉 (こうようすぎ)
大正10年頃、まだ10代であった娘さんが、母親の病気平癒祈願のため丑三つ時に白装束でお参りをしたところ、母親の病気が良くなったことから孝養杉と呼ばれるようになりました。
樹齢500年以上です。

 

大鳥居
JR大糸線穂高駅から徒歩で来れば、まずこの鳥居をくぐることになります。
石の鳥居としては、日本一の大きさであるとのこと。

 

御船会館
(前回の記事を参照してください。)

(左) 穂高人形研修館  (右) 御船会館

 

天神様
学問の神である菅原道真公を祀った天神社です。学業・合格祈願のスポットとなります。

 

阿曇比羅夫之像

大将軍安曇連比羅夫 (あづみのむらじひらふ) は、天智元年(662年)天智天皇の命を受け、船師170艘を率いて百済の皇子・豊璋 (ほうしょう)を百済に護送救援して王位に即(つ)かす。
天智2年(663年)、新羅・唐の連合軍と闘うも白村江 (はくすきのえ、朝鮮半島の錦江)で破れ、8月27日戦死する。
9月27日の例祭(御船祭)の起因であり、安曇氏の英雄として若宮社に祀られ、英智の神と称えられている。
伝統芸術である穂高人形飾物は、安曇比羅夫と一族の勇姿を形とったものに始まると伝えられる。


 

手水舎 (ちょうずしゃ)
北アルプスの天然の雪解け水を地下30mから汲み上げています。
安曇野は湧水の豊富さから「水の郷」と言われています。

 

健康長寿道祖神
長野県は平成25年厚生労働省統計発表の全国平均寿命男女とも全国一の長寿県となりました。
これを記念して、境内に建立されました。
この道祖神は日本一大きいステンレスで作られています。
ステンレスの変わらぬ輝きのように、生涯変わることなく、楽しく健やかで長寿であるようにとの願い込められています。
「御達者(おたっしゃ)道祖神」などとも呼ばれています。

(おきな)と媼(おうな)が笑顔で寄り添う像の握手部分には健康長寿に加え、夫婦円満・縁結びのご利益があるとのこと。参拝者も手で撫でて「手撫で詣り」を。

 

神馬舎 (しんめしゃ)
絵馬が多数飾られています。栗毛の像は木曽馬をモデルにしているようです。


本来、神社には本物の馬を奉納されることが多かったようです。
雨ごいには黒毛の馬を、天候の回復を祈るためには白馬を奉納したともいわれています。戦の前には武将が馬を奉納することもあったのですが、神社では馬の世話が負担となり、また奉納する側も高価な馬は負担が重いことから、絵馬に変っていったといわれています。


欅の木 (けやきのき)
樹齢500年以上。安曇野市指定文化財。
昭和45年5月、文壇・画壇の巨匠である川端康成、井上靖、東山魁夷がそれぞれ夫婦お揃いで参拝された際、その若葉繁るこの木を仰ぎ見て絶賛しました。
昭和46年7月、井上靖が「欅の木」と題する小説を著しています。


境内御社 (1)

(左) 八坂社 (やさかしゃ)  (中) 事比羅社 (ことひらしゃ)  (右) 子安社 (こやすしゃ)

 

(左) 保食社 (ほしょくしゃ)  (右) 四神社 (しじんしゃ)


若宮社 (わかみやしゃ)

御祭神は安曇比羅夫命 (あづみのひらふのみこと)
相殿神は信濃中将 (しなのちゅうしょう)
狛犬にも注目。1769年に奉献された阿吽(あうん)一対の狛犬です。
江戸で作られ、手車に乗せて穂高まで運ばれてきたもので、安曇野市で年代の刻まれている参道狛犬としては最古のものです。

複数の神様をお祀りしている場合、
主として祀られている神様を御祭神 (主祭神)、それ以外の神様を相殿神 (あいどのしん) と呼ばれます。

信濃中将は、お伽草子の物ぐさ太郎で知られています。甲斐・信濃の国司として両国を始め、穂高神社を造営し、120歳の春秋を送り、延命長寿、財宝沢山、幸福自在の神として祀られ、信仰を集めました。

 

境内御社 (2)

(左) 疫神社 (やくじんしゃ)  (右) 秋葉社 (あきばしゃ)

(左) 八幡社 (はちまんしゃ)  (右) 鹿島社 (かしましゃ)


手水舎 (ちょうずしゃ)
江戸時代の手洗石、明治時代の手水舎です。市の有形文化財に指定されています。

 

穂高丸
神船「穂高丸」。穂高神社の御祭神は海神(わたつみ) 系で、先人たちは安曇野の自然を破壊することなく守り育ててきました。昭和57年の御遷宮祭を記念して神船が奉納されました。
平安時代風木造屋形船です。また、「上高地にある奥社と当神社との神々を送迎する御船として奉納する」とあります。

 

神馬舎 (しんめしゃ)
唐鞍(からくら) (奈良時代の馬の飾り)をつけた馬としては全国でも珍しいとのこと。馬は木曽馬をモデルにしています。

 

泉小太郎と犀龍像


(安曇の伝説) 日光泉小太郎 (にっこういずみのこたろう)

大昔、この安曇野一帯は漫々と水を湛えた湖でありました。
この湖に犀龍というものが住んでおり、犀龍と東高梨の池に住む白龍王(綿津見命の化身)との間に男の子が生まれましたので日光泉小太郎(穂高見命の化身)と名づけました。
母の犀龍は、自分の姿を恥じて水底深く隠れて住んでおりましたが、小太郎は母を訪ね探し、熊倉下田の奥尾入澤と云う処で初めて逢うことが出来ました。
この時、犀龍は「これから小太郎と力を合わせて、この湖の水を落とし、陸地として人の住める処に致しましょう」と語って、山清路の大岩をつき破り、更に水内橋下の岩山を開いて安曇筑摩両群にわたる平野を作りあげました。
それ以来、この川を犀川と呼ぶようになったと伝えられています。

 

ものぐさ太郎の碑

(左) ものぐさ太郎の碑  (右) 折口信夫歌碑

 

  ものぐさ太郎のお話 (お伽草子)

昔この地にものぐさ太郎という男が草葦の小屋に寝転がって暮らしていた。
ある日里人からもらった餅の一つを過って道に転がしてしまい、通りかかった地頭に拾ってくれと頼んだ。
太郎のものぐさぶりに感心した地頭は、里人たちによく養うように命じた。
三年の月日が経った。この村にも夫役が割り当てられ、太郎はそれを引き受けて都にのぼり、秀でた才能が大宮人に知れて時の帝に仕え、信濃中将となって故郷に錦をかざり、甲斐・信濃両国を治めた。
百二十歳の長寿を送った。

(ものぐさ太郎ブロンズより)

 

碑文には次のように記されています。

もの具さ太郎このよ悲はや久ね布る良志
あづみの大野こほ里そめつゝ

筆名は釈迢空(しゃくちょうくう)
本名は折口信夫(おりくちしのぶ)

ものぐさ太郎 このよひはやく ねぶるらし
あづみの大野 こほりそめつつ


穂高霊社
戦没者の霊をお祀りしています。

 

神橋 (かみばし)
両側の欄干には雲龍の透かし彫りがあります。市の有形文化財に指定されています。
この橋は参詣(さんけい) の道にあたります。かつての千国街道です。参詣者はこの神橋を渡ってお参りしたのです。

 

安曇節碑
安曇野に江戸時代から伝わる民謡で、松川村発祥の民謡とのこと。その唄の歌詞は、保存されているものだけでも5万首を超えるといわれます。
穂高神社駐車場の脇に建っています。

 

塩の道道祖神
道祖神を横に見ながら伸びるこの道は、旧千国街道(通称塩の道)であり、北は遠く日本海に通じ、上杉謙信が塩を運んだといわれています。
過疎の村里に取り残された道祖神をこの場所に祀ってありも、安曇野に点在する道祖神とは違い砂岩で作られた趣が異なった道祖神です。


三葉の松 (さんようのまつ)
三葉の松は全国的にも珍しく、その姿から「夫婦和楽・家内安全」を象徴して、その松葉は黄金色となって落葉します。
松葉は普通、二葉か五葉ですが、これは三葉の松です。日本では、樹高は一般の黒松より大きくはなりません。



社名石・由緒板

 

土俵
土俵がありましたが、訪問時にはシートで覆われていました。

 

結びの石神
昔は、別々の場所に祀られ、願いが叶うまで何度もお祈りされていた千度石。その三石の千度石に
(1) 過去に感謝
(2) 現在・今に祈願
(3) 未来・明日に結願
の祈りを込めて・・・
過去から未来へ、子々孫々へ、祈りの和の心が継承されることを願って、御影石一石の上に石神三石を置いています。
時を超えて幸せへと導く「結びの石神」です。

切実な祈願のため、何度も参拝するのが「お百度参り」
それよりも強い願いが「お千度参り」
そのお千度参りするための標識として設けられたのが千度石です。

御影石 (みかげいし) について
大理石と御影石の違いは、変成岩か火成岩(花崗岩も火成岩の一種) の違い。
大理石は柔らかく吸水性があり、主に屋内で使用。
御影石は硬く吸水性が低いため、屋外や水回りで主に使用。

 

遭難者慰霊歌碑
石碑には次のように刻まれています。
「星影神苑にまたたき 岳人懐想の夢を招く」

 

仁王石

穂高神社には、穂高大明神という神仏習合の神宮寺がありました。
明治の神仏分離により神仏習合はなくなるのですが、穂高神社は江戸時代に神宮寺は取り壊されていました。
神宮寺の仁王像は浅間村に盗まれ、仁王像跡地の古木を「仁王」と呼んでいました。
しかし、その木も枯れてしまいました。
氏子一同で相談して寄付を集め、牧村にあった大石2つを、正月の内から大勢集まって何日もかけて、2月8日に仁王石として立てたのです。


 

神池 (かみいけ)
穂高神社の奥宮は、上高地の明神池の畔にあります。昔は明神池の背後にそびえる明神岳穂高と呼ばれ、明神岳が御神体だったのです。
神池は明神池をイメージしてつくられています。

(左)神池  (右)嶺宮遙拝社
奥穂高岳の山頂に鎮座する穂高神社嶺宮への遙拝社です。
この遙拝社を拝むことにより、奥穂高岳山頂の嶺宮をお参りしたことになるといいます。ここに祀られている社は、2015年まで奥穂高岳山頂に祀られていた「旧社」です。
遙拝(ようはい) とは、遠く隔たった所から拝むことです。

 

社務所 (しゃむしょ)
社務所は神社で行う事務一般(社務)を執行します。
参集殿では結婚式場など各種催し物の会場に利用されます。

(左) 社務所  (右) 参集殿

 

白松 (はくしょう)
昭和37年4月、宮中へ恒例の山葵を献上した際、この松の枝を下敷きとして添えたところ、陛下の御目にとまり、陛下より「これは白松である」と御教示を賜ったこの上ないおめでたい松です。
(写真は位置を変えて撮りました)

白松は、中国から渡来したものが主です。松の仲間としては長命で、古木は独特な風格を持つことから、長寿の象徴あるいは神聖な木とされ、寺社などに植栽されることが多く、庭木として一般家庭の庭にあるのは稀です。葉は三葉です。

 

樽銘酒
穂高神社に献上された安曇野の名酒が並びます。

 

車の御払い
交通安全の祈祷が受けられます。車のお祓いです。

 

以上、主なポイントを紹介しました。
他にも、たくさんの有名な歌碑等があるのですが、それはまた別の機会に紹介します。