安曇族って? どこから来たの?
その疑問を紐解くためには、弥生時代の中国との関連を調べる必要があります。
今回は、日本の弥生時代における中国の歴史背景をみてみます。
約1万3000年前から約1万年以上もの長い間、縄文土器を使っていた時代を 縄文時代 といいます。
水田稲作農耕が始まってから前方後円墳が出現するまでの時代を 弥生時代 といいます。
具体的には、紀元前300年頃から紀元後250年頃の時代です。
(ただし、紀元前10世紀頃には、既に稲作が行われていたとして、弥生時代の開始年代が遡る説があります。)
紀元前5000年頃から黄河・長江(揚子江) 流域に高度な文明が生まれました。
黄河文明では主に麦栽培中心、長江文明では稲作中心の文明が特徴です。
黄河文明の終わりに、三皇五帝 (8人の伝説的帝王)の時代があり、その最後の舜 (しゅん) の後継者となった兎 (う) が夏王朝を建国しました。
(紀元前2000年頃始まります)
中国最古の王朝で、兎 (う) が建国しました。
初代の兎から末代の桀 (けつ) まで500年ほど続きました。
桀は徳ではなく武力で諸侯や民に接し、憎まれます。
(前16世紀頃~前11世紀頃)
諸侯の中から殷の湯 (とう) が立ち上がり、鳴条 (めいじょう) の戦いで桀を破ります。
前16世紀に建国しました。
まだ鉄はなく青銅器文明でした。
絶対的な王が、甲骨文字 (漢字の基となる)を用いた占いで政治が行われていました。
殷王朝最後の都である殷墟 (いんきょ) からは10万点にのぼる甲骨文字が見つかっています。
最後の王が紂王 (ちゅうおう) で、暴君として名を残します。
600年ほど続いた殷も、紂王の時代に終焉を迎えます。
前11世紀、武王が紂王を討ち、周王朝を建国しました。
封建制を採用しました。
前770年、西方から異民族が侵入し、都・鎬京 (こうけい) が攻略され、洛邑 (らくゆう) へ遷都しました。
遷都以前を西周、その後を東周と呼びます。
地方の諸侯の力が増大し、王室の勢力は衰え、戦乱の世に突入していきます。
諸子百家と呼ばれる思想家たちが登場しました。
主に戦国時代に現れた多数の思想家のことです。「子」とは先生のこと、「家」とは学派のことです。「百」の数字はここでは「多い」という意味で使われています。
孔子、孟子、荀子の儒家
老子、荘子の道家
墨子の墨家
他にも 法家、名家、兵家などがあります。
東周前半は春秋時代、後半は戦国時代といいます。
数十の国があった。
“春秋の五覇” という有力諸侯が覇権を争いました。
春秋の五覇とは
斉 (せい) の桓公 (かんこう)
晋 (しん) の文公 (ぶんこう)
楚 (そ) の荘王 (そうおう)
呉 (ご) 王の闔閭 (こうりょ) とその子夫差 (ふさ)
越 (えつ) 王の勾践 (こうせん) です。
呉王、越王に代えて
秦 (しん) の穆公 (ぼくこう)
宋 (そう) の襄公 (じょうこう)
をあげる説もあります。
長江流域に、呉と越の2つの国が覇権を巡って争っていました。激しく対立し合っていたのが、呉王闔閭 (こうりょ) と越王勾践 (こうせん) の時代でした。
ともに勢力拡大を図って楚の領土を侵し始めます。呉が楚の首都まで迫り、楚を滅亡寸前まで追い詰めたとき、越はこの隙間を突いて呉に侵攻します。呉は撤退せざる得なくなり、呉は越と対戦します。しかし、呉は敗走し呉王闔閭も命を落とします。跡を継いだ夫差 (ふさ) は、父の仇を討たんと決意を固めます。
2年後、越の勾践が呉に侵攻したとき、呉の夫差は全精鋭を繰り出して応戦し、越軍を会稽(かいけい) 山へ追い込みます。呉軍に包囲され絶対絶命の危機に陥った勾践は降伏の道を選びますが、勾践の謝罪に対して、夫差は勾践を馬小屋の番人とすることで包囲を解いてしまいます。勾践は馬小屋で働きながらも必死に耐え、越に帰国が許されてからも、「会稽の恥」として復讐を決意します。
5年後の前475年、呉王夫差は勢力圏を広げようと北へ兵を向けます。一時は戦果をあげるものの次第に疲弊し始めます。呉の情勢を見ていた越の勾践は、好機を見つけ呉に侵入。呉の都を焼き払って帰還します。その4年後にも再び呉に侵攻。3年もの攻防の末、夫差は敗北を認め自ら命を落とします。
こうして長き抗争の末、夫差の死をもって呉は滅亡します。前473年のことです。
その後、越は最盛期を迎えますが、次第に衰退し、前306年頃、楚に滅ぼされます。
<呉越同舟 (ごえつどうしゅう) >
仲の悪い者同士が同じ場所に居合わせること。また、共通の利害のために協力しあったり、行動を共にすること。
この言葉は『孫子』の故事に由来する四字熟語です。
「呉」と「越」は宿敵同士で、その攻防戦は38年に及んだといます。
『孫子』には「中国の春秋時代、呉と越の国は戦争を繰り返すほど仲が悪かったが、もしも両国の人が同じ舟に乗り合わせていた時、暴風に襲われ舟が転覆しそうになれば、呉の人も越の人も普段の遺恨を忘れ、舟が沈まないよう互いに助け合ったに違いない」とあります。
“戦国の七雄” という諸侯が公然と王を名乗っていました。
燕 (えん)・斉 (せい)・趙 (ちょう)・魏 (ぎ)・韓 (かん)・秦 (しん)・楚 (そ)
やがて秦のが他の6国を滅ぼします。
前221年、秦が中国の統一を果たします。
秦の始皇帝は、はじめて「皇帝」と名乗りました。
遊牧騎馬民族の侵入を防ぐために万里の長城を築きます。
急激な改革、たび重なる戦争、始皇帝陵や兵馬俑 (へいばよう) などの大土木事業は農民を疲弊させ、秦は農民反乱によって衰退していきます。
始皇帝の時代は12年間続き、死後わずか3年で秦は滅びてしまいます(前206年)。
秦は恐怖政治を敷いたため、政治に対する不平不満が高まり、各地で反乱が起きます。そして、楚の項羽と劉邦によって秦は滅ぼされます。しかし、今度は王の座を巡って、項羽と劉邦が楚と漢に分かれて激闘が起きます。
項羽 (こうう) と劉邦 (りゅうほう) による漢楚 (かんそ) の争乱に、劉邦が勝利します。
項羽は秦軍を撃破していったものの、20万人以上の投降兵を生き埋めにするなど残虐な行為が目立ちました。最後には、劉邦が項羽を追い詰め、自害に追い込みます。
この時、圧倒的に劉邦軍が有利な状況で、項羽軍の敗戦が濃厚となり始めた頃、戦場にどこからともなく故郷・楚の歌がこだまし、これを耳にした楚の兵士たちが「すでに漢軍が楚を占拠した」と思い込み、涙する者が多かったといいます。これが故事「四面楚歌」です。
(前202~後8年)
劉邦が漢王朝を建国し、初代皇帝高祖 (こうそ) として君臨しました。
漢王朝は約400年間続きます。
都を長安(現在の西安)に建設しました。
7代 武帝 (ぶてい) の時代に全盛期を迎えます。
(8~23年)
王莽 (おうもう) が建国しました。
改革はあまりにも急進的であり、各地で農民反乱を招くことになります。
(25~220年)
光武帝 (こうぶてい) が即位しました。
宦官 (かんがん) による政治腐敗が進み、各地の豪族が中央へ進出し、王室は名目的な存在となりました。